10-13 漢訳の始まりー安世高と支婁迦讖ー

10-13 漢訳の始まりー安世高と支婁迦讖ー


 鳩摩羅什(くまらじゅう)は401年、関中の長安西安)に迎え入れられて経典の漢訳事業に着手した。鳩摩羅什以降の漢訳経典を旧約(くやく)という。羅什より前の漢訳を古訳(こやく)という。また、玄奘以降の漢訳をを新訳という。

 後漢(ごかん 25~220年)の時代に仏教は中国にもたらされる。仏典の漢訳は後漢の時代から始まる。漢訳に従事したのは西域からの渡来僧である。その頃の翻訳僧として、安世高(あんせこう ?~170年)と支婁迦讖(しるかせん 147~186年)の名前が知られている。

 安世高の生没年は不明。後漢桓帝(在位146~167)のころの訳経僧。安息国(パルティア)の太子であったが、父の死を機として出家。桓帝治世の初めころ洛陽にいたり、次の霊帝(在位168~189年)の時代にわたる約20年間、もっぱら経典の漢訳に従事した。訳出経典は,『四諦経』『転法輪経』『八正道経』『安般守意経』など34部40巻に達したといわれる。いずれも小乗経典に属するものである。

 安世高の出身地安息国(パルティア)は、セレコウス朝より独立し、イラン、メソポタミアを支配した王国である。前二世紀中ごろにはユーフラテス川からインダス川にいたる大領域を支配した。後、メソポタミアを中心にローマとの攻防を繰り返し、三世紀に入るとササン朝の攻撃を受けて滅んだ。安世高の出身が本当に安息国だとしたら、仏教はずいぶんと西の地域まで広がっていたことになる。

 支婁迦讖(しるかせん)は、安世高と同じころやはり洛陽にいた。支婁迦讖は月氏国(クシャン朝)の出身で、13部27巻の大乗経典を訳出している。訳出仏典の中でもっとも重要なものが『小品般若経』の異訳の『道行般若経である。これは。般若経典類最初の訳出である。また、『般舟三昧経』の訳出によって、初めて中国に阿弥陀仏が紹介されたことも、中国仏教にとって大きなエポックとなった。

 月氏国(クシャン朝)は前一世紀後半、大月氏の諸侯の一つ、イラン系のクシャン族が現在のアフガニスタンを中心に建てた王朝。カニシカ王のころが最盛期で、トルキスタンから北および西インドまでを支配した。三世紀以降ササン朝ペルシアに服属し、六世紀に至りエフタルに滅ぼされた。西はパルティアに接していた。ローマのインド洋貿易と漢の陸路のシルクロード貿易とを結びつけた。

参照・引用
・参照 http://www.tabiken.com/history/doc/A/A275R100.HTM