12-06 中国大乗の戒律

12-06 中国大乗の戒律

2006/11/8(水)


 四世紀末、戒律は、道安などによって翻訳されたものがあったとはいえ、まだまだ不足しており、戒律の実践も極めて不完全であった。そこで、こうした状況を嘆じた東晋の僧 法顕(337?~422?年)は、経と律とを求めてインドへの求法の旅に出た。

 法顕が律を得て帰国した頃には、中国でも鳩摩羅什によって律の翻訳作業が進められていた。鳩摩羅什によって翻訳された律と、法顕によって中国に持ち込まれた律によって、戒律の実践、僧伽の運営や修行方法に対する理解が進んだ。

 インドにおいては、律のことはすでにアショーカ王の法勅(前三世紀ごろ)にみえる。インドでは釈尊滅後100年ごろまでに、法蔵部の四分律説一切有部十誦律化地部の五部律、大衆部の僧祇律、飲光部の解脱律の五部がそれぞれ成立していた。どの教団でも入団に際し、戒律を授りその護持を誓約することが僧侶ないし仏教徒になる前提であり、律典は戒・定・慧の三学の一として重要視された。

 魏の252年(嘉平4)に曇柯迦羅(法持)が中インドから洛陽に来て白馬寺で『僧祓戒心』を訳出し、授戒したのが中国における律の伝来である。以後、律典が漢訳され、初め“十誦律”が多く行われた。その後、410年から442年にかけて長安で“四分律”が訳出され、北魏の法聡が初めてこれを研鑽、憲光(468~537)の弘法により“四分律宗”が盛んになった。

 唐代初期にいたってこの系統に立つ道宣(596~667)が出て中国の律宗を大成し、“南山律宗”を開いた。一方、法礪(569~635)も四分律を研究して“相部(律)宗”をその弟子の懐素(629~697)は師の説を批判して“東塔(律)宗”を開き、中国律宗は全盛期を迎えたが、やがて相部宗・東塔宗は衰え、南山律宗のみが栄え宋代までつづいた。

 もともと四分律は成実論にもとづく小乗仏教系のものであったが、道宣は分通大乗を説き、その後南山律宗は大乗系の戒律も取り入れ、十重禁戒や三聚浄戒を説いた。三聚浄戒は身心を清らかにする教えを集めた三つの戒律の意味で、戒律を守ること、善法を保つこと、つねに衆生の救済を願う菩薩行を行ずることで、大乗菩薩戒を代表するものであるが、この戒律を守ること(摂律儀戒)の内容を小乗四分律の580戒をもって充て、律宗は大乗戒を唱えながらも、小乗の戒律を包摂するにいたった。

引用・参照
・田中愛子「中国仏教史」
 http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011221.html
 http://www.tabiken.com/history/doc/T/T079C200.HTM