16-06 中国天台の成立

16-06 中国天台の成立

2006/11/8(水)


■ 中国天台

 中国の隋の時代、天台宗の実質的な開祖である天台宗三祖の天台大師智顗(ちぎ)(538~597年)が中国仏教を再編成して、随の第二代皇帝の煬帝(在位 608~618)の帰依を受けた。その根本とした経典は『法華経』である。智顗の講義が後に講義録として編纂された、『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』を天台の代表的な経典として天台三大部という。

 西暦220年に漢が滅亡してから589年に隋によって中国が再び統一されるまでの時代を魏晋南北朝時代という。仏教はすでに漢の時代に伝わっていたが、中国人の取り入れた仏教は格義仏教とよばれるものだった。それは当時の主流だった老荘思想など中国固有の思想を媒介として仏教を解釈するものであった。やがて、五胡十六国時代に西域の鳩摩羅什(350~409年)らが中国に来訪した。鳩摩羅什の訳経と布教は中国人のなかにも高僧を輩出させ、貴族階級のなかに多くの熱心な信徒を得て、寺院や仏塔も多く建立された。そして、格義仏教の時代は終わる。

 魏晋南北朝時代の各王朝は仏教を保護した。仏教はたいへんな発展をとげた。それは、やがて隋や唐の時代に仏教がさらに花開く準備期といえる。その、南北朝時代の末期から隋にかけて北朝に起こった仏教が天台仏教である。

 南北朝時代はあいつぐ戦乱と社会不安の時代であり、より以上に救済を仏教に求める時代でもあった。天台仏教はその救済を鳩摩羅什の訳した『法華経』に求めた。また、同じく鳩摩羅什のもたらした中観思想(空の思想)は天台仏教草創期になくてはならないものだった。


■ 慧文

 中国の南北朝時代北斉の僧。慧聞ともいう。生没年、生地ともに不明。南岳大師慧思の師匠。龍樹の『中論』によって、一心三観の理を悟った。一心三観とは、
  空観 執われの心を破し
  仮観 すべての現象が仮りのものながら存在することを悟り
  中観 絶待的(対立を超越している)世界に体達する
を一思いの心のうちにおさめとって観ずることをいう。

 それは、『中論観四諦品第二十四』(龍樹撰述・鳩摩羅什訳)に
  衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義
とあるように、いずれの縁起でもそれは我々は空と説き、それは仮名であって、それはすなわち中道であるという文言からきている。

 やがて、この一心三観の思想を基にして、地獄から仏の十界それぞれに十界が互いに具わっている十界互具。更には十如是(『妙法蓮華経方便品第二』)と三世間と十界互具を掛け合わせた三千が一念の心に具しているという一念三千という天台宗の基本教義に発展する。


■ 南岳大師慧思(515~577年)

 中国、南北朝末期の高僧。南岳衡山(湖南省)に僧団を作ったので南岳大師とよばれる。慧文のもとで禅の修行にはげみ、30歳をすぎたころ開悟。その悟りは頓悟といって少しずつ悟っていくのではなく、一挙に悟る悟りである。その頓悟をもとに大乗仏教のあり方を山東・河南の各地で説いたが、仏教界の激しい迫害に遭う。

 正法五百年、像法千年、末法万年の三時説と末法思想が中国で最初に見える。後に、大蘇山に入り、さらに南岳に移って天台大師智顗をはじめ多くの弟子を養成。陳王朝から尊敬された。自性清浄心を確信する頓悟中心の禅観と、護法のための大胆な菩醍戒など、革新的な思想の持ち主だった。天台宗だけでなく禅宗にも大きく影響した。


■ 天台大師智顗 (538~597年)

 天台大師と称されるのは、天台山での修行で悟りを得て、天台山で入滅したからである。煬帝(隋の第二代帝)から智者の号を賜ったので智者大師、あるいは天台智者大師ともいう。中国の陳・隋時代の僧。天台宗の開祖であるが、インドの龍樹、上記に挙げた慧文、慧思につぐ第四祖ともされる。

 梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれた。七歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど幼少期から非凡の才能があった。十七歳のとき梁が敗退して一家が難民となり、両親が死去する。両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて慧思の門に入る。

 天台教義を体系付け、陳や隋の皇帝の帰依を受ける。金陵(南京)の光宅寺で『法華文句』を講義し、故郷の草州に玉泉寺を創建して『法華玄義』と『摩訶止観』を講義した。これらは弟子灌頂の講義録として現在に伝わる。

引用・参照
・広済寺ホームページ
 http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/index.htm