33-07 ハッダ出土の最古の経典

33-07 ハッダ出土の最古の経典

2006/9/25(月)


■ 問題の提起

 今日では経典は文字で書写されたものをいう。書写の材料としては、古くは、椰子の葉(貝葉)、白樺の樹皮、羊の皮などが使われた。しかし、経典が一般に書写されるようになったのは仏陀がなくなってから数世紀を経てからである。それ以前は、口伝で伝えられてきた。書写されるようになった後も、口伝がなくなったわけではない。戒律などは、後まで口伝で伝えられたようである。

 経典がいつ、どこで、文字で書写されるようになったのか。この点はほとんど問題とされていないようだ。しかし、書写の始まりの問題は、仏教史にとって重要と考える。経典の書写は、西北インドで、紀元前後に始まったと考えることはできないだろうか。また、経典の書写の始まりと仏像制作の始まり、および大乗経典の制作とは相互に密接な関連があるように思われる。

 経典の制作の始まりに関する文章を見つけることができた。以下にに紹介するが、注目すべき諸点を先に述べておくこととする。

1.経典はガンダーラ語で、カロシュティ文字が使用されている。カロシュティ文字は西北インドで、ブラフミー文字に先立って用いられた。これは、経典の書写がガンダーラ地方で始まったことを意味するのではないか。ガンダーラでの書写の始まりは、アショーカ王の碑文の影響がある。インドの言葉と西の文化の文字の接触がこの時代に始まった。

2.戒律文献が全くなく、経典の部分も少ないことが挙げられる。注釈文献とか『アヴァダーナ』が多い。経典や戒律を書写することはまだタブー視されていたのではないか。そのため、書写は、経典や戒律以外のものから始まり、しかも西北インドガンダーラ地方という辺境において始められた、と考えることはできないだろうか。

3.ハッダ出土のものに関する限り、大乗経典は見当たらない。


 
 現存最古と推定される仏教写本と申しますのは、白樺の樹皮製の29巻の巻物で、現在はロンドンの大英図書館に保管されております。白樺の樹皮をつなぎ合わせて、幅14~25センチ、縦2.3メートルから2.5メートルにしたものを、表を内側にして下から巻いたものです。ギリシャパピルスの形状を真似たものと推定されています。

 この写本は法蔵部への寄進と銘された土器の壺の中に入っていました。壺から取り出される前に撮影された写真から壺の中に写本が入っていることがわかります。写本を入れた壺がどこから出たか明確ではありませんが、伝聞によるとハッダ、現在のジャララバードの近くで発見されたそうです。ハッダは大乗仏教の授記の思想と関係する場所ですが、この写本には大乗仏教の要素が全く見られないことが注目されます。

 この写本の素材は白樺の樹皮です。インド全般ではターラという椰子の葉(貝葉)が写本の素材としてよく使われましたが、ガンダーラやその周辺から中央アジアにかけては主に白樺の樹皮が用いられました。写本というと紙に書くものと思われがちですが、紙は中国で発明されたものです。

 この写本の言語はガンダーラ語です。ガンダーラ語というのは、ガンダーラ周辺で少なくとも紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃まで使われていた言語です。

 この写本はカローシュティー文字で書かれており、右から左へ横書きされています。この文字は古代インドで用いられた二種類の文字の内の一つで、ガンダーラとその周辺から中央アジアにかけて一時期使われていました。ただカローシュティー文字はインドの言語を表記するにはあまり適当ではありません。例えばアフガニスタンという国名の現地発音である「アフガーニスターン」のような長母音を短母音と区別して表記することができません。

 カローシュティー文字は西方のセム語の文字から生まれた文字ですが、こういう事情があってのことでしょうか、もう一つの文字が古代インドで作られます。それがブラーフミー文字です。ブラーフミー文字は英語と同じで左から右へ横書きされます。現在のインドの文字はこのブラーフミー文字から発展したものですが、スリランカや東南アジア諸国で使われている文字、チベット文字、これらもすべてインドのブラーフミー文字そのままか、或いはそれの変形です。日本では墓地の卒塔婆五輪塔梵字が刻まれていますが、これもブラーフミー文字の一種です。

 この写本の書写年代は紀元後10年から30年頃と推定されています。ただしその根拠は、その年代に生存していた人物への言及が写本の中にあるからでして、若干疑問が残ります。この人物とは、次の「写本の内容」の第6に挙げた、当地で創作された『アヴァダーナ』の中に登場する、紀元後10年から30年頃に歴史上実在した人物です。それでこの写本自体もその頃のものと推定されたわけです。

 この写本の文字や言語の年代的特徴から、写本年代が紀元後一世紀から二世紀であることは動かないようです。紀元後10年から30年頃となると、仏教の写本だけでなく広くインド語で書かれた最古の写本となります。ただ最近はどんどん新しい写本が発見されていますから、これよりもっと古い写本が将来見つかる可能性は十分あります。

 次は写本の内容です。まだ全容が解明されたわけではありませんが、23~34種類の仏典が含まれていることがこれまでに明らかにされています。大きく分けて六つのジャンルに分かれます。

 まず最初のジャンルは「『長阿含経』相当経典と注解」です。ここで言う『長阿含経』とは5世紀の初めに漢訳された『長阿含経』でして、その原典は法蔵部に属していたと推論されていますが、この漢訳『長阿含経』とほぼ合致する部分とその注釈がこの写本の中に発見されました。このことと、先程申した、法蔵部への寄進と銘のある壺にこの写本が納められていた事実から、この写本は法蔵部に属していたと推定されます。

 法蔵部がインドで消滅するとともに、この部派が伝えた『長阿含経』のインド語原典も失われ幻の原典となっていたわけですが、この写本からそれを垣間見ることができるようになりました。それから南方上座部に属する、パーリ語の『アングッタラ・ニカーヤ』という経典に対応するものも一部発見されています。

 二番目のジャンルとして種々の「韻文経典」があり、パーリ語の『スッタニパータ』とか『ダンマパダ』などに対応します。三番目のジャンルとして「韻文撰集注解」と呼ぶべきものがあります。例えば上の二番目の韻文経典の中から韻文を抜粋して、それに注釈を施したものです。
 四番目は「讃仏文学」という、ブッダを讃える文学です。五番目として「仏教哲学論書」、これは『アビダルマ』とも呼ばれる体系的な哲学論書です。

 以上の五つのジャンルは法蔵部以外の部派の仏典にもありますが、六番目のジャンルの『アヴァダーナ』は事情が異なります。このジャンル自体は仏教説話文学の一種で他の部派の仏典にもありますが、この写本に含まれる『アヴァダーナ』は、この写本が発見されたと伝えられる広い意味のガンダーラで新たに創作されたものです。この点は、この『アヴァダーナ』の中に、当地で紀元後10年から30年頃に実在した歴史上の人物が言及されることからわかります。先程申しましたようにこれが写本年代を決定する資料ともなりました。なおこれまでは『アヴァダーナ』というと業報輪廻説が主題となる仏典とされていましたが、この写本の『アヴァダーナ』にはこの説が含まれていないことが注目されます。

 他の特徴として律が皆無で戒律文献が全くなく、経典の部分も少ないことが挙げられます。それに対し注釈文献とか『アヴァダーナ』が多いのです。これらは「仏説」以外の非聖典部分ですが、特にこの写本の『アヴァダーナ』は当地で創作されたものですので、ブッダが説いたものでないことは明白です。そういう「仏説」以外の非聖典部分が多く、逆にブッダが説いたと権威づけられるような聖典部分は殆どない。

 このことから、聖典部分は文字に書かずに口頭で伝承されていたために写本としては残っていないと推定されます。同じようなことが中央アジアで発見された仏教写本でも言えます。そこで発見された説一切有部の古い時代の写本は殆ど非聖典部分で、時代が下がるにつれて聖典部分が増えてきます。つまり写本が残っていないからといって聖典が存在しなかったのではなく、聖典は存在していたのだが口頭で伝えられていたと推定できるわけです。

 この写本の起源として、「書き写された」というメモが写本の文字の上に落書きのような形で存在することから、長く使われて写本が古くなり、中身を全て他の写本に書写した後、聖遺物として壺に保管されたのがこの写本であると推定されています。

 以上、この写本はアフガニスタンのハッダ付近において、1世紀頃に法蔵部が伝えていた仏典の一端を提示していると考えられます。これが、仏典の原典の内容に関して現在の我々が確実に知り得る最古の歴史資料になります。

参照・引用
・榎本文雄 平成13年度公開講演会「アフガニスタンの仏典」
 http://www.eonet.ne.jp/~indology/Blb.htm