31-22 「無記」と龍樹の中論
31-22 「無記」と龍樹の中論
2006/9/27(水)
少し前の文で、「無記」の一般的理解について述べた。その説明方法は「毒矢の喩え」として多くの仏教入門書に必ずといってよいほど紹介されている。皆さんはこのような説明で納得されたでしょうか。若い頃に初めてこの話に接しときに、何か納得しがたいものを感じた。それはいまだに尾を引いている。
「毒矢の喩え」でもって説明する仏陀の顔は苦渋に満ちていたのではないか。仏陀は言いたかった。「そのような疑問が疑問であるうちはまだ何もわかっていないということだ。私が説いていることが解れば、そのような疑問自体が出てこないはずである。」
上山春平との思わぬ出会いがあった。以下は、上山春平・梶山雄一 『仏教の思想3』空の論理<中観> 角川書店 からの引用である。
龍樹(ナーガルジュナ)『中論』の最終章「観邪見品」の末尾に次のような二つの偈頌(げじゅ)がある。
一切法空故 一切の法は空なるが故に
世間常等見 世間は常なり等の見は
何処於何時 何れの処、何れの時に於いて
誰起是諸見 誰かこの諸見を起こさん
グ曇大聖主 グ曇大聖主(ブッダ)は
憐愍説是法 憐愍(れんみん)して是の法を説き
悉断一切見 悉く一切の見を断ず
我今稽首礼 我れ今稽首(けいしゅ)して礼す
あらゆる存在は空であるから
世界は常住であるか等の諸見は、
何処に、誰に、何故に、生じるのであろうか。
一切の邪険を断じるために
慈悲によって正法を説いたブッダに
私は敬意をささげる
この二つの偈の意味するところは、こうだと思う。すなわち、「一切の存在は空である(一切法空)」という観点が確立すれば、「世界は常住である。等・・・」の邪見(世界常等見)は生じない。こうした一切の邪見をなくすために、「一切の存在は空である」という正しい教えを説いたブッダに私は帰依する。
・・・・
ナーガルジュナは別の著である『大智度論(だいちどろん)』のなかで、ブッダがなぜ十四難に答えなかったかという問いを設定した上で、自らこれに答えて「このことは実なきがゆえに答えず。・・・たとえば、人ありて、牛の角をしぼり、幾斗(いくと)の乳を得るやと問わば、これを問いにあらずとなして答うべからざるがごとし。・・・」と、ブッダの真意を深くわきまえていたことがわかる。
以上で、上山春平の引用は終わる。まさに「わが意を得たり」というところである。ところで、『大智度論』は鳩摩羅什の漢訳があるだけである。羅什自身の創作によるものではないか、との説もある。