32-02 仏像と転輪聖王

32-02 仏像と転輪聖王

2006/6/30(金)


 今日の仏教にとって仏像の存在は余りにも当然のことである。仏像の無い仏教は考えられない。しかし、釈迦の在世中はもちろん、亡くなった後も長い間、仏像は造られることはなかった。仏像がはじめて造られたのは、紀元一世紀の頃のクシャン朝の時代である。釈迦が亡くなってから数百年も経ってからのことである。クシャン朝の時代になって、インド西北部のガンダーラ北インドのマトゥーラで突然のように仏像の制作が始まった。
 
 仏像がどこで、いつごろ、造られ始めたのかは、近年の発掘によって明らかとなっている。しかし、仏像がどのように造られ始めたのかは謎である。ガンダーラはかつてアレクサンダー大王支配下に置かれ、その後もギリシヤ人が残り、ギリシヤ系の国がつくられるなどヘレニズム文化が強く残っていた地域である。また、当時のクシャン朝は、ローマとの交易も盛んであったので、ローマ文化も流入していた。さらに、クシャン朝の西はペルシャである。当時はパルティアという国があった。ガンダーラにおける仏像の誕生に西方のギリシャ、ローマ、ペルシアなどの文化の影響が大きかったことは否定できないだろう。

 しかし、それだけでは十分な説明にはならない。それまで、数百年間もの長い期間、制作を控えてきている。仏像の制作はタブーであったのである。数百年もの間固く守られてきたタブーが外的要因のみで簡単に破られるものであろうか。仏教の側における条件の成熟、いわば、内的要因の成熟が必要であったと考える。

 仏教の側における内的要因の成熟とは何か。それは一言でいえば、仏像のイメージの完成である。仏像のイメージが、仏像のレリーフや壁画、彫刻が現れる前に完成していた。「三十二相八十種好」というのは仏陀のイメージを三十二の大きな特徴、八十種の小さな特徴で表現した言葉である。当時の仏教徒たちは、仏像彫刻が作られる前に明確な仏陀なイメージを完成していたである。

 「三十二相八十種好」の仏陀のイメージは、仏陀の神格化、転輪聖王(てんりんじょうおう)との並列化、仏伝・ジャータカなどの発展によって形成されてきた。マウリア朝のアショカ王の時代に、84,000もの仏塔(ストゥーパ)が全国に作られ、その仏塔を荘厳するために、仏教美術が発達し、仏教美術のテーマとして仏伝なども発達した。また、転輪聖王のイメージもこの時代にはすでにつくられていた。転輪聖王アショーカ王の登場に触発されたと思われる。

 クシャン朝の時代には仏陀のイメージはすでに完成していた。そのイメージを彫刻にするためには、神像をつくるヘレニズムの文化が作用したであろう。また、そのイメージを彫刻として具現するためにはギリシャ彫刻の技術が役立ったことであろう。

 しかし、長年のタブーが破られるためにはそれだけで十分ではなかった。さいわいにもっとも初期の仏陀像のレリーフがある金貨が発見されている。ティリアテペで発掘されたものである。表には、法輪をまわそうとしている仏陀の全身像、裏には四つの印ががある。金貨に神々の像を彫るには二つの理由がある。

 一つは、自分がその神より優位にあることを知らしめるためである。しかし、同時に、神の権威を利用して、自分の権威付けに利用しているのである。仏陀も他の神々と同様に造形化される必要があった。クシャン朝の金貨はその後、表に帝王、裏に仏陀像などの神像が描かれるようになる。