32-03 仏伝と仏像美術

32-03 仏伝と仏像美術

2006/7/18(火)


 仏像ができる前、仏教美術は仏塔(ストゥーパ)の荘厳という形で開花していた。仏塔崇拝はマウリア朝のアショーカ王(紀元前268~232年)のころから盛んになった。アショーカ王は仏教に帰依した後、八万四千ともいわれる多数の仏塔をインド各地に建てた。仏塔の周囲の塔門や欄楯(らんじゅん)には仏伝をテーマにしたレリーフ(浮き彫り)が施された。

 最初は涅槃(ねはん)の場面が重要視された。次に、降魔成道(ごうまじょうどう)や初転法輪(しょてんほうりん)の場面、それに誕生の場面が付け加えられて仏伝は完成する。誕生、降魔成道、初転法論、涅槃の四つの代表的な場面を四相図という。なお、降兜率、入胎、誕生、出家、降魔成道、初転法論、涅槃の八つの場面を釈迦八相図という。

 仏伝の発展から見れば、出家以後、厳密にいえば成道以後の事蹟が早くから仏伝などにあらわれ、美術でもとり上げられている。これは釈迦が宗教家として同時代の人々と接触したのが主に成道以後であってからであるからである。誕生周辺の事蹟は教理的にはそれほど重要な意味をもたないが、仏伝を完成させるためにはやはり欠くことはできない。誕生関係の説話が完成したのは諸仏典が最初に整理されたアショカ王の時代以降であったと考えられ、美術の上でも最も遅れてあらわれている。

 本生譚(ほんしょうたん 仏陀の前世の物語)も早くから成立していたようである。仏陀の如き類まれな人格は僅か数十年の生涯で完成されたものではなく、そのために過去に無数の生涯における準備が必要であって、インドにおける輪廻の思想の裏づけもあったからで、仏陀を神格化するための第一歩として当然のことであろう。

 しかし、仏伝のいわば主人公である仏陀の像は決して描かれることはなかった。例えば、誕生の場面では布のみが、成道の場面では樹木のみが描かれたにすぎない。


 現存する仏塔に施された仏伝美術のレリーフをみておこう。

◆サンチーの第一ストゥーパのトラナ(塔門)

 マディヤ・プラデーシュ州の州都ボパールから北へ67㎞。小さな村の小高い丘にサンチーの仏教遺跡がある。建造物の主役は球形ドーム型の三つの仏塔で、インドに残る最古の仏塔である。紀元前三世紀頃にアショーカ王によって建立された。最大の第1塔は高さ16.5m、直径36.6 m ある。

 塔の東西南北には入り口にあたる塔門(鳥居のような門)が建てられている。当初は現在の半分くらいの大きさしかなかったが、後の王朝や信者の寄進によって増築され、塔門や欄楯(らんじゅん)が付け加えられた。見どころといえるのが第一ストゥーパの四方の塔門である。四基の塔門は、一世紀初めのサータヴァーハナ朝時代に南、北、東、西の順で建てられたとみられる。

 これらの塔門を彩る浮き彫り彫刻の主なモティーフは、仏伝図、仏陀の前生の説話を描く本生図 (ほんしょうず)、そして仏教的象徴群である。 これらを基本にさまざまなな光景の描写と装飾が、各塔門の二本の柱と、それをつなぐ三本の梁の表面を、余すところなく埋めつくしている。

◆バールフトの欄楯

 バールフトは、インド中部マディヤ・プラデーシュ州サトナーの南15Kmにある。インド仏教美術の最初期の作例として重要。バールフトの欄楯は、紀元前2世紀頃、シュンガ王朝の時代に作られた。「仏舎利を運ぶ象」と「マーヤの夢」がある。

・「仏舎利を運ぶ象」
 釈迦が亡くなった時、八つの王国は各々遺骨を受け入れることを望み戦争になった。結局、ブッダの遺骸を荼毘に付しその遺骨を八カ国で分けることで決着がついた。その仏舎利を象が運ぶ姿を現している。

・「マーヤの夢」
 釈迦を懐妊するに先立って生母「マーヤ」は不思議な夢を見た。白い象が飛来して胎内に宿った夢であった。それは偉大な人物の誕生を告げる予兆であった。

引用・参照文献
 田中義恭編著『仏像の世界』CD-ROM版
 http://members.ytv.home.ne.jp/nejyoho/mihon.pdf