32-20 仏塔と菩薩に見る賎

32-20 仏塔と菩薩に見る賎

2006/8/25(金)


■小乗涅槃経に見るブツダの葬法と塔の建立

 ブッダは入滅を前をして、「法を見る者は我を見る。我を見る者は法を見る」とか、「自己を燈(洲・依り所)とし他者を依り所とせず、法を燈(洲・依り所)とし他者を依り所とせずに住せよ」とか、「我亡きあとはわが教えし法と律とが師である」といった遺訓を残して逝った、と伝えられる。はたして、どれだけの僧尼たちがそれに耐えられたであろうか。

 また、ブッダの涅槃を前にして、傍に付き添っていたアーナンダは、遺体をどのように取り扱ったらよいかをブッダに問うている。それに対してブッダは、舎利供養は出家の比丘たちのかかずらうべきものではない、自己の目的のために努めよといい、浄信をもつクシャトリヤバラモン・資産家の賢者たちが舎利供養を行なうであろう、と答えている。つまり、在家の者たちがすでにその仕方を知っているから、彼らに任せよというのである。

 ところが、アーナンダはこれに満足せず、しつこく舎利供養の仕方をブッダに尋ねる。それに答えて、転輪聖王の葬法に倣って行なえとして、ブッダによってその葬儀の仕方が詳細に説かれるのである。そこでは、最後に四辻に舎利を納めた塔を建て祭りを行なうことが命じられた。

 そこで、その教えにしたがって、アーナンダの指揮のもとに、ブッダの舎利供養と仏塔建立がなされることになる。アーナンダは、大いにかかずらっていた。また、火葬堆に火を点けたのも、マハーカッサパであった。比丘たちの関与なしには、ブッダの葬儀は完遂しなかった、といっても過言ではない。比丘たちに、かかずらうなと命じたことは、彼らがかかずらっていたからなのである。

 パーリ中部経典には、次のように比丘が六種に分類されているのが見られる。第1は阿羅漢で漏尽者、輪廻することのない者、第2は五種の下位の束縛を断った者で、化生者(不還者)となるもの、第3は三種の束縛を断ち、一度だけこの世界に戻って来る一来者、第4は三種の束縛を断ち、預流者として破滅せず決定ある者、第5は法および信に随順する比丘、第6はブッダに対するわずかな信(saddh¯a) と愛(pema)がある比丘である。第4と第5の比丘は覚りに赴く者であるが、第6の者は天に赴く者とされる。

 仏塔は、後の碑文では涅槃獲得のために祈られたが、当初は信仰者をして生天に導くものとして機能していた。第6の比丘のごときは仏塔を崇拝することで、ブッダに対する信と愛を捧げることができたと考えられる。

 また、ここでいわれる愛の原語、パーリ語のペーマはサンスクリット語のプレーマ(prema) に相当し、これはヒンドゥー教におけるバクティ(誠信、信愛)の構成要素をなすものである。したがって、仏教におけるバクティ的信仰表現の片鱗とみてもよかろう。仏塔や仏像の崇拝にはバクティ信仰との関わりや影響を主張する学者が少なくないが、比丘たちのあいだにも同じ心情のもとで信仰の表明をなしたとしても、何ら不思議ではない。

 比丘たちと仏塔との深い関わりについては、紀元前2世紀頃に製作されたバールフト塔への寄進者たちの分析によって明確にされる。そこでは先ず、多くの出家の比丘や比丘尼が率先して寄進者として名を列ねているのが認められる。そのなかでも特に、ナヴァカンミカ(Navakam.mika) と呼ばれる比丘たちの関与があげられる。

 彼らは僧院や仏塔の造営工事の指揮・監督にあたる者であり、比丘たちのあいだから選出された。もともと僧院の建設や修理に従事した比丘の呼称であったが、仏塔の建立・修理にも関わった。比丘の関与なしには、仏塔は製作されなかった。その証拠に、比丘・比丘尼に対する戒律の規定であるはずの律典に、仏塔の製作の方法、供養の仕方が詳説される。南方上座部の律典にはそれを欠くが、他派には見られない『トゥーパ・ヴァンサ』(Th ̄upa-vam.sa 塔史) という仏塔に関する独自の文献を有しており、仏塔を重視したことが同等に認められる。

 説一切有部の教団の伝える律典『十誦律』には、「師匠」という地位にある比丘が仏塔や僧院の設計図を描いたり、模型を作ったりすることが許されたとある。カーシー国の王子が出家して比丘になった。父王が仏塔を建てるからといって子を呼び付けたところ、安居中で許されなかったのであるが、仏塔建立のためということで許された。これは在俗者である王が、仏塔建立に際して比丘の指導および監督を要請
したことを示し、在俗者のみでは建立不可能であったことを証明する。

 次に、バーナカ(Bh¯an. aka) という比丘たちがあげられる。経典の暗誦者である。経典を暗記し、抑揚をつけて読み聞かせた人たちで、多聞者(bahussuta)、経師(suttantika)、律師(vinayadhara)、論師(dhammakathika) といった高位にある比丘たちと同等に置かれる。それぞれの経典に各バーナカがいた。仏塔には多くのジャータカ物語が浮き彫りされているが、その図の内容はこうした比丘たちの説明なしにはほとんど理解不可能であった。「ジャータカのバーナカ」と呼ばれる比丘たちが、ジャータカ図を絵解
きしながら歌い物語ったことで、仏塔への巡礼者たちを魅了した。仏塔を生気あらしめた立役者であった。

 ナヴァカンミカであれ、バーナカであれ、彼らは聖者( ̄arya)、大徳(bhadanta) とも呼ばれ、決して比丘のなかで下位にある者ではなかった。三蔵に精通する(tri-petakin)聖者も仏塔の寄進者の名に列ねている。このように、出家の比丘たちの、しかも高位にある者たちの仏塔への積極的な関与を認めることができる。仏塔は在俗信者の信仰対象であり、出家者は僧院にこもって経典の読誦と禅定に励んだという図式は、正鵠を得たものとはいえない。


杉本卓洲 『仏塔と菩薩に見る賎』より
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/shima/kaken98.pdf