32-22 マウリア朝とアショカ王の登場

32-22 マウリア朝とアショカ王の登場

2006/8/27(日)


■マガダ国の成立

 前七世頃のインドはいわゆる十六王国時代である。前六世紀にはいると、この中からガンジス川中流域、現在のビハール州を中心とするマガダ国と、同じくガンジス川中流域(マガダより上流域)のコーサラ国が強大な国家になっていった。

 マガダ地方は古代インドの政治・経済・文化の中心地であり、仏教の発生地でもある。両国の抗争は、前五世紀にマガダ国の勝利に終わり、コーサラ国は滅び、その領域はマガダ国に併合された。マガダ国では仏教・ジャイナ教が保護された。


ナンダ朝の成立

 ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは、次にインドへの遠征を目指した。紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔でパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。

 アレクサンドロスの西北インド侵攻の頃、ガンジス川流域ではマガタ国にナンダ朝が生まれ、ほぼ三十年間と短期間ながら、ブッダが生きていた頃よりも広い地域を支配していた。その最初の王は隷属階級シュードラの出身だと伝えられている。

 前320年ごろ、ナンダ朝の支配に対して、マガタ国内で反乱を起こしたのが、チャンドラグブタ(在位前317~前293頃)である。彼はナンダ朝軍を破ると、たちまち首都パータリブトラを陥落させた。チャンドラグブタもまた、隷属階級シュードラの出身だったといわれた。

 このアレクサンドロス大王のインド侵入は、インド人の間に統一の機運を生み出し、インドに統一国家を出現させることとなった。


■ マウリア朝の成立

◆ チャンドラグプタ

 首都でマウリヤ朝を創始するや、チャンドラグブタはただちに西へ向かい インダス川流域の西北インドを制圧した。また、チャンドラグブタは南インドにも兵を送り、南端の一部を残してほとんどインド全土を占領した。

 その間、マケドニアではアレクサンドロス大王の後継者たちのそれぞれの勢力範囲がおおかた固まり、前305年ころ、セレウコス一世がインダス川流域奪回をめざす東征軍を率いて西北インドに近づいた。しかし、チャンドラグブタ率いるインド連合軍という、セレウコスが予想もしなかった大軍が現れ、逆にインド側にインダス川流域ばかりでなく、アフガニスタン南部の諸州の割譲まで認めさせられて、敗軍のように引き上げていったのである。ともあれ チャンドラグブタは、セレウコスとは友好的な関係を結ぶほうが有益だと考えたのであった。このとき、彼は、セレウコスの王女を妃として迎えている。・・・

 チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、ナンダ朝の武将となった人物であるが、アレクサンドロス軍の西北インド侵入の混乱に乗じて、ナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝(前317頃~前180頃)を樹立した。チャンドラグプタ(位前317頃~前296頃)はガンジス川流域を征服し、西北インドに進出し、アレクサンドロスが残したギリシア勢力を駆逐し、セレウコス朝の進出を押さえてアフガニスタンを手に入れ、南にも勢力を拡大し、インド最初の統一国家であるマウリヤ朝を建設した。パータリプトラ(仏典にみえる華氏城)を都とし、強力な軍隊と官僚組織をもって、富国強兵策を推し進めた。

 彼の後は子のビンドゥサーラが継ぎ、国力はますます充実した。

◆ アショーカ王の登場

 その統一事業を継承・完成させ、マウリヤ朝の全盛期を現出したのが第三代の王、有名なアショーカ(位前268頃~前232頃)である。彼は東南方のカリンガを征服し、インドの南端を除く全インドを統一した。このカリンガ征服の際、10万人の死傷者、15万人の捕虜が出たが、その悲惨な状況を目にしたことから、悔恨の情に動かされ、仏教の慈悲の心にひかれ、以後仏教に帰依し、熱心な信奉者となり仏教を保護奨励した。

◆ アショカ王の即位

 チャンドラグブタは晩年ジャイナ教に帰依し、王子ビンドゥサーラに位を譲った。ビンドゥサーラ王の子が、アショーカ王(在位前二六八-前二三二)である。アショーカはビンドゥサーラ王の数多い息子のひとりだったが、成人してから西北インドのタクシラに反乱鎮圧のために派遣され、手柄をたてた。その後、西インドの要衝ウッジャインの太守となっていたが、父王が重病と知るや都に帰り、九九人といわれた異母兄弟をことごとく殺して王位についたとされている。その他の暴虐ぶりも伝えられている。


◆ ダルマによる政治

 アショーカ王の善政が始まったのは、南インドのカリンガ国を攻略したあとからである。この戦争で、王はつくづく戦争の悲惨さと無意味さを痛感し、国は力ではなく法によって治めるべきものであることを悟った。彼はダルマ(法、真理、道徳)による政治を方針として掲げたが、それは必ずしも仏教による政治を意味するものではない。バラモン教をはじめとするインドの宗教思想が理想とするダルマの精神に則る、ということであり、特定の宗教を弾圧するようなことはなかった。そして王自身は、即位後八年ほどして仏教に改宗したことを自ら書き記している。

 インド各地に残る了ンヨーカ王の「法勅」と呼ばれる石柱と磨崖の碑文は、アショーカ王がダルマの政治を宣言した確実な証拠である。石柱と磨崖は、現在でも広い範囲に数十カ所も残り、インド全土のみならず、アフガニスタンパキスタンでも発見された。磨崖と石柱では時代のひらきがあるようだが、このなかでアショーカ王は、全官吏にダルマの宣布を命じたり、ダルマを重んじる新しい政策や外交についてふれているほか、殺生を禁じ、人としての礼をつくすべきことなどを細かく述べている。

 新しい政策としては、人間と動物のための病院を建て、薬草・果樹の栽培を進めて医療の充実をめざすとともに 街道沿いに樹木を植え、井戸なども掘って、旅人の休憩のための便宜をはかった。裁判の公正と刑罰の軽減に意を用い バラモン教、仏教、ジャイナ教など、すべての宗教の保護も約束している。


◆ 仏塔の建立と聖地巡礼

 広大なマウリヤ朝を治めるためには 宗教を分け隔てなく扱うのが得策だったに違いないが、アショーカ王自身は仏教に深く帰依し、ブッダの没後、遺骨を分けて納めた8つの仏塔のうち、7つの仏塔から仏舎利を取り出し、帝国全土に新たに建立した8万4000の仏塔に分納した。八万四千という数はともかくも、各地に仏塔が建てられたことは事実で、サーンチーやタキシラなどに残る仏塔の遺跡は、原形はアショーカ王建立のものに始まるといわれる。

 また、王がブッダに関係する聖跡をめぐっていたことは、ブッダの誕生地とされるルンビニーに訪問の記念碑が建っていることでもわかる。ブッタガヤの菩提樹などにはたびたび訪れたという。


◆ 第二結集
 仏教の教団はすでにブッダ没後一〇〇年(あるいは一一〇年)後に第二結集を開き、ガンジス川中流域の都市で暮らし、信者から受け取った金銭を蓄えることなどをはじめていた比丘たちと、地方で厳しい修行と布教を続けている比丘たちとの間で、分裂が起こっていた。前者を「大衆部」、後者を「上座部」という。中央集権的な組織をもたなかった仏教は、国内の各地で、それぞれが地方の事情を反映した教団を形成していくことは避けられなかった。アショーカ王の時代には、第二結集から二〇〇年後にあたる二十もの宗派が生まれていたという。

 その一方で、ブッダの神格化が進み 誕生地、ブッダガヤの菩提樹、入滅地などをはじぬ ブッダゆかりの多くの場所が聖地として信仰されるようになったことは、アショーカ王の巡礼ぶりをみてもわかる。


■ 仏教の普及

 いずれにしても、仏教徒たちにとってアショーカ王の信仰と政治は、はかりしれない意味をもった。このインド最大の帝王が執着を傾けたために、仏教は王の名とともに東方の世界へとどろきわたったのである。また、マウリヤ王朝が滅びても、新たにインドに興る王朝はマウリヤ時代の版図に広くいきわたった仏教という宗教を無視することはできなかった。すでに述べた西インドのバクトリア王国が、ギリシヤ人による征服王朝でありながらメナンドロスのような王を出していることが、そのことをなによりも雄弁に物語っているだろう。

引用・参照
 アショーカ王と仏教 『文明の道』