31-34 西方文化との接触

31-34 西方文化との接触

2007/2/13(火)


 釈尊入滅のあと、一応の安定を得ていたインド北西部は、その百年に満たないころ、はるか西方のギリシア軍の進入を受ける。マケドニアに発して、ギリシア全土を統一を果たしたアレクサンドロス大王は、疾風怒涛のごとく宿敵のペルシア軍を滅ぼし、さらに一路東進して、途中の国を次々に粉砕しつつ、その治下に治め、ついにはその軍はインダス河に進出し、かき集めのインド軍と対峙する。

 象軍などを揃えて、インド軍はいささか抵抗するものの、力及ばずに破れ、ギリシア軍は北インドに進入した。ときに、紀元前327年。しかし、その部下たちは、あまりに東進しすぎた遠征に疲労が重なり、それ以上の侵攻を強く拒んだことから、大王は翌年軍を返し、戦いを交わしながら母国に帰還の途上、バビロンで前323年に客死、まだ33歳の若さであった。

 この一大異変は、さまざまな結果と影響とを、インドその他の各地に及ぼした。三つだけを述べよう。
 第一に、アレクサンドロスの軍には、すぐれた武将たちのほかに、あまたの技術者やいわゆる知識人ほかが随伴した。そして征服し、占領し、平定した地を、多くの面からギリシア風に変えた。これが世に知られるへレニズム化であり、ギリシアからインドに至る広大な地の多くの場所に、当時、種々の分野で卓越していたへレニズム文化が流入し、浸透してゆく。

 とくに各地の要衝はギリシアの諸侯たちの治下に収められ、ヘレニズム文化が開花した。このような背景のもとに、ギリシア文化とインド文化、そして同時にその中間に位置したペルシアすなわちイラン文化という当時の三大文化の直接の接触が本格的に開始され、交流が起き、それがしだいに密度を増して、隆盛を迎える。

 なお、インドとイランとの交渉は、アレクサンドロスの遠征以前にもすでに見られ、この大王に滅ぼされたイランのアカイメネス王朝(前700ころ-前330)の支配は、ガンダーラからインダス河流域にまで及んでいたともいわれ、それを示すいくつかの遺跡が報告されている。
 
 第二は、それらが引き金となって、西アジア中央アジアからインドの一部に広がるこのあたり一帯には、引き続いて、多くの動乱や反逆などを含む活発な諸活動があいついで勃発し、いわば政治や文化その他の活性化、もしくは混乱が生ずる。

 第三に、インドには、最初の統一国家であるマウリヤ王朝が出現(前317年)する。当時、ガンジス河中流から下流の地域に、最大の勢力を擁したマガダから興ったチャンドラグプタは、アレクサンドロスの軍の侵入後一○年ほどのちに、同地を支配していたナンダ王朝を倒し、その勢いを駆って近隣諸国を併合し、さらに西北インドに根をはっていたギリシア軍を、また続いて侵入してきたシリア軍を撃退し、駆逐して、ほぼインド全域にまたがる大帝国を建設した。これをマウリヤ王朝と称する。

 この王朝は、第三代のアショーカ王(前268-232在位)に至って全盛を迎え、インド全体の繁栄も促進される。同時に、アショーカ王の仏教帰依は、仏教そのものの発展と拡大とに大いに寄与した。おそらく、このアショーカ王即位よりやや以前に行なわれたと推定される「第二結集」と、それに基づいて、保守派の「上座部」と進歩的な「大衆部」との分裂の時期までを、初期仏教と名づけるならば、このアンョー力王は、こうしてようやく形を整えはじめた初期仏教に、篤い尊崇を捧げ、やがてはその帰依を宣言した。こうして、ほぼアショーカ王前後の時代を中心に、仏教はガンジス河中流域から北へ南へ、とくに西インドに広く流通し、ついにはインドの主要な地域のほぼ全体に普及した。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170