31-37 「転輪聖王」の登場

31-37 「転輪聖王」の登場

2007/2/22(木) 午前 5:22 --32 仏像と経典の成立 歴史

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 三十二相八十種好という仏像のイメージは、「転輪聖王」のイメージになぞらえて形成されたと考えられる。「転輪聖王」概念はいつ頃成立したのか。転輪聖王は、経典においては、『転輪聖王獅子吼経』や『転輪聖王経』に登場する。転輪聖王はインドのはじめての大帝国マウリア朝のアショーカ王がモデルである。マウリア朝はアショーカ王の後衰退し、クシャン朝が成立するまで、北インドは政治的混乱が続いた。この混乱の中で、アショーカ王の再登場を願う声が、アショーカ王を理想化し、転輪聖王という概念を作り出したのではないか。


 以下は、前述したところと重複する部分もあるが引用である。
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 アショーカ王の晩年のころから、マウリヤ王朝には衰退の兆しが見えはじめ、その政治勢力が没落して混迷が続くうちに、紀元前180年ごろには、新しいシュンガ王朝がマウリヤ王朝にとって替わる。だが、この王朝も勢力は弱く、以後の200年あまりのあいだ、諸王朝の交替はまことにめまぐるしく、インドは再び細分裂して、各地にさまざまな政治権力がうたかたの専横を振い、一時の専断を誇った。

 それらの政治権力の大部分は、とくに北インド一帯においては、実はインド人ではなくて、あるいはシリア人であり、あるいはギリシア人の末裔であり、あるいは、中央アジアの諸民族、たとえばスキタイ人の一種のサカ族ほかであり、それらの横暴のあとに、結局は、中央アジアの部族で、中国では大月氏と呼ばれたクシャーナ族によって、戦乱の終結を見る。とりわけ、その部族の長のカニシカ王(ほぼ132-152在位、別説78-103)は、中央アジアからイラン アフガニスタン、さらに北方インド全体を統一する大帝国を建設した。これをクシャーナ帝国(貴霜王朝)と称し、この帝国は三世紀半ばごろまで継続する。

 この統一までの問の絶えることのない、しかもきわめて血なまぐさい戦いにおいて、さまざまの内乱や反逆もさることながら、とくに外来民族の侵略と征圧とは、悪逆無道の暴戻や蛮行を伴なうことが多く、それを受けた地域は、しばしば甚大な被害を被り、その悲惨はまことに痛ましい。

 インドの吟遊詩人たちが代々語り伝えた一大叙事詩マハーバーラタ』は、おおよそ紀元前三○○年から後二○○年ごろまでの間にその大体が成立し、後四○○年ごろに現形が確定したと推察され、一八編一○万頌あまりの詩句より成る。それは本来「バラタ族(すなわち、現インド人の先祖)の戦争を語る大史詩」を表わし、戦争譚を軸として、多数の神話・伝説・物語・思想・習俗・文学などを含む。このテクストに、まさに右に記した一世紀初頭の北インドにおける異民族の蛮行や残虐が、そのうちの「マールカンデーヤ篇」中に伝えられている、と学者はいう。

 マールカンデーヤは一仙人の名で、彼の語るカリ・ユガ(「闘諍世代(とうじょうせだい)」と訳す)の惨状は、実に悲惨を極める。すなわち、外来の野蛮人どもは、いたるところで殺人・略奪・暴行の限りを尽くして、そこに繰り広げられた乱暴狼籍は、ついにはその地域住民のあいだにも浸透し、そのように乱れに乱れた各地では、人びとがすべて敵対しあい、互いに憎み、傷つけ、盗み、奪い、殺戮を繰り返す、食や財を強奪し合って、すでにあらゆる徳も、人間性までも失われた、とこの仙人は語る。それらの無秩序や非道による人びとの塗炭の苦しみは、おそらく北インドのかなり広い地域に及んでいたらしい。 ただし、それは一種の物語ふうに述べられており、文学作品としての性格から、ある程度の文飾や誇張も含まれていよう。

 なお、この反映は、年代の遅いアーガマ阿含経)に記録されている。すなわち、パーリ『長部』の第二六「転輪聖王獅子吼経」(てんりんじょうおうししくきょう)や、「中阿含経」の第七○「転輪聖王経」には、人の寿命は一○歳、童女は五歳で嫁し、食物は草などしかなく、世は雑然・騒然として乱れ狂い、人は獣に近く、互いに害し、怒り、殺意を抱き合い、あらゆる善は失われる、などの記述がある。また、仏教のいわゆる「後五百歳説」もしくは「像法-末法思想」も、この乱世と同調するのではないかと見る学者が多い。ちなみに、「後五百歳説」とは、釈尊の滅後において、仏教がいかに推移するかを、五百年ごとに区切り、「正法-像法-末法-法滅」と進んで、ついに仏法が衰滅に至ることを説く、一種の終末説で、この五百年を千年とする説もある。

 ただし、これらの戦乱や暴虐は、北インドに限られていて、南インドには達せず、デカン高原以南には、アンドラ王朝がかなり長期間にわたり安泰であり、北インドを征服したクシャーナ王朝に対しても平安な均衡を保っていた。

 さらに、特記すべき一項がある。外来民族のうち、ギリシア人の中には、仏教に深い関心を寄せ、ときには帰依するものも出る。とくによく知られているのは、ギリシア人の王メナンドロス(インド名はミリンダ)であり、彼は紀元前一四○年ごろ北インドを統括しているあいだに 仏教僧ナーガセーナと対論して、仏教信者になったといわれ、この問答の一部始終をパーリ文『ミリンダ王の問』が今日に伝える。

引用・参照
・中村 元 三枝充よし 『バウッダ・仏教』 小学館 p170