32-12 クシャン朝の役割

32-12 クシャン朝の役割

2006/8/18(金)


■ 仏陀観の展開とクシャーン朝の文化

 仏像の起源についてはなお不明な部分が少なくないが、クシャーン朝時代(一世紀中頃~三世紀中頃)に仏像の造像は一般化し、急速な展開をみたことは間違いない。仏像の制作が急速に発展していった事情については、おそらく在俗の仏教信者たちを中心にした仏教内部における仏陀観の展開と、クシャーン朝文化のあり方の問題とにかかわっていると考える。


■ 仏陀観の変化

 仏陀観についていえば、初期の仏教経典では釈迦は弟子たちに対し、「涅槃に至る道を示す者」として記されている。僧たちにとっては、釈迦が示したダルマ(法)を拠り所とし、涅槃に向けて修行に励むことが肝要であった。しかし、世俗を捨て得ぬ一般の仏教徒たちは、舎利を祀り、ストゥーパを供養することによって、釈迦を追憶し、信仰の拠り所とした。

 やがて幾世紀もの間に、仏教徒たちはもはや「死せる神」では満足できなくなり、それ以上の「生ける神」を欲するようになる。一連の仏伝・讃仏経典(「マハーヴアストウ」「ラリタヴイスタラ」「ブッダチャリタ」「ディヴィャ・アヴァダーナ」など)の中では、仏陀はもはや単なる聖者ではなく、「その身体は、三十二の相(大きな特徴)と八十の随形好(小さな特徴)をそなえ一尋の大きな光で輝き、千の太陽にも勝る煌々たる、動く宝石の山の如き」ものとして形容されるのが常である。

 仏典の中に見える仏陀の超人化・神格化の常套語は、「三十二の大丈夫相を具えている」ことである。「三十二相をそなえている者は、在家にあれば転輪聖王となり、出家すれば仏陀となる」という言葉は、仏典中の三十二相の記述の際に決まって現れる。「大丈夫相」(マハープルシャ・ラクシャナ=偉大なる者の特相)をそなえた仏陀という語には、世界を締くる理想的な帝王にも等しい、精神界の王というイメージが託されている。

 このように仏陀の神格化は在俗の仏教徒たちの内部から、いわば内在的な発展として起こってきた。仏像の飛躍的な展開という出来事は、人々のこのような釈迦に対する神格化の念によって促進されただけでなく、当時の歴史的状況、とりわけ外的な要因、すなわちクシャーン朝の造像伝統が大きな影響を与えたと考えられる。


■ クシャーン朝の造像伝統

 中央アジアからインドにわたる大帝国を築き上げた、遊牧民族のクシャーン朝には古代イランの帝王観に基づいた肖像彫刻の伝統があった。たとえば、クシャーン朝の故地トハリスタンのハルチャヤンの宮殿址には、神々に讃嘆される王侯夫妻の肖像、また王侯貴族たちの儀礼場面、王侯騎馬像などが、広間の壁に塑造で表されていた。

 またヒンドゥークシュ山脈北方のスルフ・コタルと、中インドのマトゥラー郊外のマートには それぞれ王権神格化のための神殿を築き、ウィーマ・タフトやカニシカといったクシャーン帝王の石造の肖像彫刻を据えた。これらの彫刻は 神格化された帝王を肖像として表すクシャーン民族の伝統を物語っている。

 広大な領土を支配したクシャーン王は「諸王の王」として、神格化した帝王像を提示することが必要であったに違いない。そして仏教徒たちにとっては、これはとりもなおさず転輪聖王の造形と映ったことだろう。


■ 仏像の成立

 仏像の造立がガンダーラおよびマトゥラーでそれほど時を隔てずに、クシャーン朝下で展開するのは、クシャーン朝の帝王に対する崇拝とそれに基づく肖像彫刻の伝統の影響によるものであろう。この頃には、すでに仏教徒たちの間に、釈迦に対する神格化の念は強く、転輪聖王にも比すべきものとなっていたし、クシャーンの貴族の中で仏教に帰依した者も少なくなかったであろう。クシャーン民族の帝王像の造像伝統は、「人間を超えた人間像」としての仏陀の像を造る上で大きな推進力となったに違いない。

引用・参照
・宮治昭 『仏像学入門』 春秋社