42-05 トルファンとウィグル 公開しない

2006/11/16(木) 午前 10:32 --42 トルファン 歴史


前漢代に車師国の一つ車師前国があり、その王城は交河城(ヤルホト)と言った。この城の下には河が流れているので、交河城と言う。その当時で人口が六千五百とある(当時の首都・長安の人口が二十四万ほど)。この交河は現在のトゥルファン市街から西に10Kmほど行った所にその遺跡がある。これに対して漢は現在のトゥルファン市街から東へ45Km行った所に高昌城(カラホジョ)を築いて屯田を行っていた。

その後、中国から戦乱を避けて高昌へと移り住むものが多くなり、北涼の王族・沮渠氏が車師国を滅ぼして、450年に高昌国を立てる。この高昌国は柔然に圧迫されて滅び、その後は北方民族(柔然・高車・突厥)の影響下の元に闞・張・馬の四氏が王となり、498年に麹嘉(きくか)が高昌王になり、640年に唐に滅ぼされるまで続く。

高昌を征服した唐はこの地に安西都護府を置いて西域経営の拠点とした。唐の国力がこの地方にまで及ばなくなる9世紀になると天山ウイグル王国の支配下に入り、夏都とされた。

モンゴル帝国の征服後にはチャガタイ・ハン国に領有され、分裂後は東チャガタイ・ハン国の領有となる。


引用・参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3