42-04 ウィグル人の伸長

42-04 ウィグル人の伸長

2006/11/15(水)


■ はじめに

 トルファン(吐魯番)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区の都市のひとつ。トルファン盆地の中央に位置し、面積は1万5738km²。人口は24万人(1995年)。ウイグル族が70%を占め、残りは漢族が多い。新疆ウィグル自治区全体をみても、人口は約2,000万人で、その6割は少数民族で、そのほとんどがウィグル族である。

 出土文書では、西域のオアシス国家は、初めイラン系およびインド系の民族によって形成されていたようである。この地方の民族がトルコ系のウィグル人の西進によってトルコ化したのは十世紀以降のことである。中央アジアは、ウィグル化、イスラム化、モンゴルの三回の大きな波に洗われている。トルコ人の伸長を中心にしてこの問題の整理を試みたい。


■ 匈奴の活躍

 紀元前四世紀末から、モンゴリアでは匈奴が活躍した。匈奴は戦国時代からしばしば華北の北境に侵入した。その後、秦の将軍蒙恬(もうてん)に撃破されたが、前三世紀後半にオルドスを占領し、さらに紀元前176年には、月氏楼蘭、呼掲(こけい)など、およびその周辺の26国を平定し、みなその領土とした。もともと匈奴は冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう)の位につく前は弱体で、東はモンゴルの東胡に、西は月氏に圧倒され、冒頓はいちじ月氏の人質であった。しかし、冒頓は選り抜きの戦士団を養成し、父頭蔓単于を射殺して単于となり、西域諸国を支配下においた。東は東胡を破り、南方は漢帝国を圧倒した。

 紀元前140年、年少気鋭の武帝が即位すると、帝は積極的に匈奴の制圧に乗り出し、建元2年(前139年)には張騫を大月氏に送って、攻守同盟を結ぼうとした。彼は往還ともに匈奴に捕えられ、13年がかりの旅となった。同盟は結べなかったが、西アジアの情勢は伝わった。

 前121年、驃騎将軍の霍去病(かくきょへい)は河西地方の匈奴を追い払った。漢はここに河西四郡を置き、二度とこの地方に匈奴を寄せ付けなかった。さらに前104から101年にかけては、2度にわたってパミールの彼方の大宛(フェルガーナ)遠征を行い、汗血馬の善馬数十匹、中馬以下三千余匹を分捕り、意気揚々と凱旋した。

 しかし、その後、

■ トルコ人勢力の起源

 ◇ トルコ人の起源

 中国の北方に西暦紀元前後から活動していた「丁零(ていれい)」または「鉄勒(てつろく)」と呼ばれる集団が、「テュルク」(トルコ人)を名のった最古の集団とされる。

 ◇ 突厥の登場

 6世紀に「鉄勒」出身の阿史那(あしな)一族が帝国を樹立。漢語では 突厥(とっけつ) と称する。マンチュリアからカスピ海近くまでの広い範囲を支配する。

 ◇ ウィグル帝国
 8世紀にヤグラカル一族が皇帝となり、ウィグル帝国を名のるが、9世紀にキルギス人の攻撃を受けて帝国崩壊。


■ トルコ人勢力の拡大

 ◇ トルコ人の拡散

 一部はウィグル帝国の存在した現在の中国の甘粛省・新疆ウィグル自治区方面に残り、その一部はオアシス国家としてウィグル王国を保持する。一部は中国方面に移動し、その一派 サダ人は中華王朝を相次いで樹立したが短命に終わる(「五代」諸王朝のうち後唐後晋後漢)。西方に移動した一部は、中央アジアのアム川・シル川流域に拡散し、イスラームイスラム教)を受容する。

 ◇ セルジュク朝 

 11世紀半ば、イスラーム化したトルコ人の一部がアム川流域~ペルシア高原北部に入り、セルジュク朝を樹立(1055年)。バグダッドに入り、バグダッドのカリフ政権(アッバース朝)の庇護者になる。

 ◇ ルーム・セルジュク朝

 セルジュク朝勢力の一部がアナトリア小アジア半島)に入る(1071年)。マラーズギルド(マンズィケルト)の戦いでビザンティン皇帝(ロマノス4世コムネノス)軍を撃破し、これまでビザンティン支配下にあったアナトリアトルコ人が勢力を確立。

 ◇ トルコ人拡大の要因

 その一つの要因は「傭兵」・「奴隷兵」として採用されたこと――西アジアについて言えば、トルコ系遊牧民軍団の「主君への忠誠」意識と、アラブの奴隷兵制度が重なり合った。

 ◇ トルコ人の拡大? 
 
 「トルコ人の拡大」・「トルコ系遊牧民集団の拡大」といっても、「トルコ人を祖先に持つ人」がたくさん移住してきたわけではない。むしろ、もともと現地にいた人びとが、トルコ系王朝(王家の祖先がトルコ人)の支配を受け入れて「トルコ人」になったという例が圧倒的に多いだろう。


■ モンゴルの衝撃とオスマン朝樹立

 ◇ トルコ人の大地と大モンゴル帝国

 11世紀には、現在の中国の甘粛・新疆ウィグル自治区(=東トルキスタン)からアナトリア半島まで、トルコ系遊牧集団起源の勢力が支配することになる→このトルコ人の広がりの上に乗って、13世紀、モンゴル勢力が勢力を拡張し、中央ユーラシアをほぼ統一して大モンゴル帝国イェケ・モンゴル・ウルス)を作り上げる。

 ◇ アナトリアとモンゴル勢力

 アナトリアでは、ビザンティン帝国勢力・セルジュク朝系勢力に大モンゴル帝国に属するフレグ朝勢力(「イル・ハン国」)が複雑に絡み、武装集団乱立の様相を呈する。このような状況のなかで、13世紀末にトルコ系武装集団から「武士団国家」としてオスマン王朝(のちにオスマン帝国に成長する)が樹立される。

引用・参照
http://www.nk.rim.or.jp/~tmitsuta/seikei/toyo1/02.html