17-08 弥勒から阿弥陀へ

17-08 弥勒から阿弥陀

2007/4/26(木)


 六世紀に弥勒の救済を説く偽経がいくつか現れた。だからといってそれまでの正統的な(中国語訳の経典にもとづく)弥勒信仰が一掃されてしまったわけではない。しかし、正統的な弥勒信仰に、確実に変質をもたらしたことは否定できない。それを裏付ける歴史上の事実が、弥勒の名をかたった反乱の続出である。このような現象は、中国語訳の弥勒経典からは決して出てこない。

 今までの研究では、弥勒の名をかたる反乱の根拠を、中国訳の弥勒経典に求めてきた。しかし、何度もくりかえすように、そこでは弥勒は遠い未来の平和と繁栄の世に現れ、真理に目覚めて人々を教えに導く存在であった。いったい、そのどこに反乱者の影があるというのか。

 一方で、偽経に語られた弥勒というのは、近い将来に世界が危機におちいったとき現れ、人々を救って世界を再建する役割を担っている。こにこそ、現実の政治に失望し、そこからの脱却をもくろむ人々に導きの星となる弥勒の姿があったのだ。

 弥勒を救世主とあおぐ信仰は、しかし、やがて縮小し、きわめて限られたものになった。弥勒の到来は未来であるという。たとえそれがどんな近い未来であったとしても---かりに明日だとしても---救いが必要なのは、今このときではないか。いずれ阿弥陀信仰が弥勒信仰を圧倒する。そうなった最大の理由は、まさにこの点にかかっているのではないか。

 阿弥陀は西方十万億土の彼方にいるという。しかし、どんなに遠くといっても、そこに今いることに変りはない。遠い未来ならば、いつ会えるかわからない。しかし、遠い場所なら、会おうと思えば会える。今すぐ飛んできてくれさえすれば会えるのだ。弥勒は時間を隔てている。阿弥陀は空間を隔てている。時間の隔たりと空間の隔たり---どちらが埋めやすいか。

 言うまでもない。時間の隔たりは埋めようもないが、空間の隔たりなら埋められる。やがて、中国では同じ時間にいる阿弥陀に信仰の対象が移っていった。しかし、弥勒信仰は消滅したわけではなかった。強力な救世主に変貌した弥勒に対する信仰は地下に潜伏して、ときに反乱勢力と結びついた。

参照・引用
・菊地 章太 『弥勒信仰のアジア』大修館書店