日本の弥勒信仰

日本の弥勒信仰

2007/5/11(金)


弥勒菩薩 (みろくぼさつ)■

 

十三仏の六七日導師。半跏思惟像(はんかしゆいぞう)の弥勒菩薩が有名です 。
五仏の付いている冠をかぶったり、手に宝塔を持っている姿が一般的です。
      
サンスクリット語マイトレーヤといい、慈悲から生まれたものとされ、意訳して「慈氏」といわれます。
釈迦の後継者で、兜卒天(釈尊がこの世に生まれる直前にいたとされる場所)で修行中ですが
釈尊入滅してから56億7千万年後に現れて人々を救うとされる菩薩です。
未来に必ず成仏することから「未来仏」「当来仏」ともいわれ、菩薩でありながら、
弥勒如来とか弥勒仏と呼ばれることもあります。

釈尊の次代の仏(未来仏)という意味で如来形で表わされる場合もありますが
兜卒天で瞑想にふける半跏思惟の姿がよく知られています。
半跏とは右足は左足の上に平にのせて左足をおろした姿。
思惟とは頭をやや前かがみにして右手で頬杖をつくようなものを考えている姿。

印相は右手は施無畏印ですが左手は掌を下にして膝を軽くおさえているような格好が特徴です。

仏教がすたれ、悟りを得る人もなく社会が混乱するという末法の時代に入ったとされた
平安時代の11世紀始めには、未来仏である弥勒菩薩の信仰が盛んになりました。


[尊釈の次代の仏 ]

 弥勒は釈迦在世の頃、南天竺のバラモンの名家に生まれた実在の人物とされる。弥勒は現在、兜率天で菩薩として修行中であり、釈迦入滅後56億7千万年(太陽系の余命とほぼ一致)後に如来となり衆生を救うとされている菩薩。弥勒菩薩はインドではマイトレーヤとよばれ、インド宗教と兄弟関係にあるゾロアスター教ではミトラ神に対応します。しかし、ミトラ信仰はゾロアスター教よりも古いもので、契約の神・天空神・光明神・冥界の裁判官でもありました。

 

弥勒信仰 みろくしんこう    

弥勒信仰の発生】

弥勒信仰は,弥勒三部経による弥勒仏菩薩を中心とした信仰である。この弥勒三部経とは,『仏説弥勒菩薩上生兜率天』と,『仏説弥勒下生経』『仏説弥勒下生成仏経』をさす。成仏経は260年ころに成立し,下生(げしょう)経は4世紀末,上生(じょうしょう)経はそれよりも少し遅れて成立した。上生経による弥勒信仰を上生信仰と言い,成仏教と下生経による信仰を下生信仰と言う。上生信仰は,死後兜率天(とうてつてん)に往生し,弥勒菩薩の傍で五十六億余年を過ごし,やがて弥勒菩薩が下生するときに弥勒に従って再び地上に戻り,弥勒仏の三会説法の初会説法に参加するという信仰である。下生信仰は,弥勒菩薩が釈迦滅死56億7,000万年後,兜率天の寿命を全うしたとき,天からわれわれが住む閻浄提である地上に降りてきて婆羅門の娘梵摩波提に托生し,やがて弥勒は仏となり竜華(りゅうげ)樹下で,三回にわたり因縁のある人々に説法をするという信仰である。この三回の説法を竜華三会と言う。われわれは不幸にも末法世に生を受けたため釈迦の説法を聞くことができたが,その化度に直接接することができなかった。このためわれわれは弥勒を信じ修行し善根をかさね,竜華三会の説法に参加することによって救援を受けなければならないという信仰である。これを三会値遇とも言う。

経典の内容から見れば,弥勒は先に兜率天に上昇しその次に地上に下生するとされているので,上生経が下生経よりも早く成立したように思い勝ちであるが,すでに述べたように未来に竜華三会を期待する下生が先に成立し,その後に上生信仰が成立したのである。つまり,下生信仰だけでは,われわれの生命は限りがありかつ短いため,弥勒が下生するまで待てず,そして竜華三会に参加できない可能性が生じる。このため,死後兜率天に昇りここで弥勒菩薩と一緒に過ごし,弥勒に従って下生し竜華三会に参加するという上生信仰が,下生信仰を補うように成立したのである。結局,上生信仰と下生信仰の関係は,下生経による弥勒信仰の不備な点を再び補充整理したのが上生信仰と言えるであろう。

【日本の弥勒信仰】

弥勒信仰の発展・展開は,末法思想をその背景としている。ここに,当来仏(未来仏)としての弥勒信仰が成立するのである。弥勒信仰の伝来は,インドから中国へ,中国から朝鮮半島朝鮮半島百済から日本へと伝来された。日本における弥勒信仰は上生信仰がまず発達し,次に下生信仰が発達した。上生信仰は奈良時代貴族信仰として発達し,下生信仰は民衆信仰に展開発展した。このような事情は,中国・韓国でもほぼ同じである。上生信仰は,律令制度下の律令社会の思想的基底を築きもした。これは,上生信仰が儒教思想の礼とそれに通じる戒を重視する点において,鎮護国家仏教としての望ましい信仰と考えられたためである。これを儒教の立場から見れば仏教を統制したことになり,仏教の立場から見れば上生信仰が戒律護持を強調したと言える。下生信仰は末法思想と深い関係をもつ。すなわち,弥勒が未来世に下生するというその時期を末法時代とし,このような末法思想と下生信仰が結びついた歴史的事実が多い。そしてこのような末法思想と結びついた下生信仰は,民間信仰的要素を多くもって展開された。

今日、日本において仏教寺院とは関係なく民間に流布されている“ミロク”信仰はこれと同じ信仰形態である。弥勒下生信仰が民間信仰化しているのは,中国・韓国の場合と同じである。弥勒信仰は阿弥陀信仰の発達に従い大きく衰退する。中国における道綽の『安楽集』や,懐感の『釈浄土群疑論』などは,弥勒信仰に対する阿弥陀信仰の優位を主張するための著書である。日本では鎌倉時代以後,阿弥陀浄土教が盛行するに従い弥勒信仰が大きく衰退し,ただ民間信仰としてのみ今日に伝えられている。弥勒信仰の伝説が寺院を中心として伝承されている国は韓国だけである。韓国の寺院には弥勒殿などに弥勒仏を奉安し,弥勒信仰を行っている。中国の弥勒信仰は布袋(ほてい)和尚信仰に変容し今日に伝えられている。このように,日本・中国・韓国三国の弥勒信仰は,それぞれ異なった展開を見せている。

末法思想 まっぽうしそう

 釈迦の入滅を基点とする仏教の歴史観。インドで成立した法滅尽の思想と正法・像法の考え方が,中国仏教において末法を加えた正・像・末の三時説として確立した思想。時代の下るにつれて仏の教えがしだいに衰え,仏法滅尽の世が訪れるとされる。すなわち,最初の正法の時代には教・行・証の三法がそなわり,釈迦の教えがよく行われる。

 次の像法の時代には教・行があるが証果が得られなくなる。それを過ぎると教えのみがあり,行も証もなくなった末法の時代となり,社会に混乱がおこるとする。この正・像・末三時の期間については,正法500年・像法500年,正法500年・像法1,000年,正法1,000年・像法500年,正法1,000年・像法1,000年の4説が諸経典にみえる。末法については,一万年とか万年とするものがあるが,期間を限定しない経典も多い。

 中国の文献で,末法思想を記す最古のものは,558年(永定2)成立した慧思の「南岳思禅師立誓願文」で,正法500年・像法1,000年・末法万年と年限を決定している。このころ,那連提耶舎により,インドの法滅尽思想を集大成した『大集経』が漢訳されている。その月蔵分には,釈迦滅後2,500年の仏教の盛衰を500年に区切って表した五堅固説(解説堅固・禅定堅固・多聞堅固・造寺堅固・闘諍堅固)が説かれていて,末法思想展開の契機となった。

 574年(建徳3),北周武帝による廃仏毀釈末法意識をより切実なものとした。また人々の末法の自覚は新しい信仰を生むことにもなり,隋代の初め,信行は釈迦入滅後の仏教を三階に分け,末法を第三階の時とする三階教を弘めた。唐の道釈・善導は,浄土教のみが末法相応の教えとして存在すると主張し,日本の源信法然に影響を与え,法相宗の窺基により正・像・末三時の内容規定が行われるにいたった。中国には,河北省房山以下各地に経文を石に刻した石経が残るが,これは末法時の法滅に備えるためである。

 日本においては,正・像・末の三時思想は奈良時代に経説としてすでにみられるが,仏法興隆の機運盛んであったことより普及しなかった。最澄は,自己の時代を像法末期と受け取り,法華流布の時期を末法に求め,その論拠を『法華経』安楽品の「末世法滅の時」の文に置いた。『法華経』の末法・末世・悪世等の語は,三時最後の末法と同義語とされ,『法華経』は末法相応の経典とされた。鎌倉新宗派の祖師たちが最澄撰として引用する『末法灯明記』は,末法の現実に即した仏教を説くが,院政期中ごろの偽作とする説が有力である。源信の『往生要集』は,末法思想浄土教信仰を結びつけ人々の精神生活に大きな影響を及ぼした。

 平安時代中期より,釈迦の入滅時を前949年,正法・像法各1,000年とし,1052年(永承7)末法を迎えるとの説が広く行われた。『扶桑略記』同年1月26日条に〈今年始めて末法に入る〉とみえるが,この年以降を末法とする意識は,古代国家の崩壊過程進行により生み出された社会・政治情勢の不安をいっそう深刻なものとした。当時の貴族の日記は,現実生活のなかでの未法意識をよく伝えている。藤原道長の金峯山埋経はよく知られているが,瓦経・経筒などにも「末法」の語が記されており,末法思想の地方・民間への滲透が窺える。

 ことに,院政期から鎌倉期にかけての武士・僧兵らの横暴,相つづく天災・戦乱・飢饉により,時代が経典に説かれる末法の様相と一致したことは,人々に末法の到来を現実のものと意識させた。末法到来の危機感は,末法意識を基底にした仏教の展開を促すことにもなり,法然称名念仏をすすめ,その弟子親鸞は,絶対他力を強調した。日蓮末法に得脱するのには『法華経』の題目を唱えること以外にないと説いた。これに対して道元は,仏教に正・像・末を立てることを一つの方便にすぎないと,末法仏教を批判した。

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