17-01 疑経と弥勒信仰

17-01 疑経と弥勒信仰

 中国には疑経と呼ばれるお経がある。インド(もしくは中央アジア)で作られ中国語に訳されたのではなく、はじめから中国語で書かれた仏教経典をそう呼ぶ。「疑経」という言い方自体、否定的表現である。しかし、中国における弥勤信仰の歩みを考えるとき、疑経がはたした役割は、たいへんに大きい。

 中国仏教の長い歴史の中で、多くの疑経が作られつづけてきた。中国でもっとも古い経典目録は、四世紀の道安の『綜理衆経目録』(そうりしゅきょうもくろく)であるという。これは現存しないが、六世紀のはじめごろ作られた僧祐の『出三蔵記集』にそれが引用されていることから、その内容を知ることができる。そこには六百三十九の経典名が記されており、その中にすでに二十六の疑経があげられている。六世紀の終わりごろに作られた法経らの『衆経目録』には、二千二百五十七あるうちの百九十六の経典に、「疑惑」あるいは「偽妄」の疑いがかけられている。

 これらの疑経は、庶民による仏教信仰の実態を知るうえで欠かせない資料として、日本でも欧米でもさかんに研究が行なわれるようになってきた。最近では中国においても、ようやくそのような認識が一部で起こっている。

 疑経にはどんなものがあるだろうか。「盆と正月」と言えば、わたしたち日本人にとっては一年の大事な節目である。このお盆の行事のもとになっているのが『孟蘭盆経(うらぼんぎょう)』である。日本の仏教にとっては大切なお経だが、古くから疑経と見なされていた。『父母恩重経』も同じである。

 奈良時代に、国がとこしえに栄えることを祈って仁王会(にんのうえ)がもよおされた。のちには修正会(しゅじょうえ)と呼ばれるようになった。宮中における年中行事のひとつである。そのとき読まれた『仁王般若経』も、疑経と考えられている。『仁王般若経』は護国経典の代表と言ってよい。

 『観無量寿経』も疑経ではないかと考える研究者がいる。阿弥陀信仰の原点となっている経典である。第二章で述べたように、一群の観経とともに 中央アジアで作られたという説と、中国で作られたという説がある。前者であれば中国語に訳された翻訳経典ということになり、サンスクリットから訳されたものとほぼ同列に置かれる。もし、後者であれば中国撰述イコール疑経ということになるだろう。

 話題を弥勒信仰にもどそう。中国語に訳された仏教経典によって、弥勒の存在が中国で知られるようになった。それはそのとおりだが、その後の中国における弥勒信仰の性格を決定したのは、中国語訳の経典ではない。それは中国人によって作られた疑経なのである。

 あえて言おう。疑経にこそ中国弥勒信仰の本質がある、と。中国語訳の経典に説かれた弥勒のありようが、その後の中国においては、すっかり変わってしまう。すべては疑経によっている。

参照・引用
・菊地 章太 『弥勒信仰のアジア』大修館書店