42-03 トルファンへ

42-03 トルファン

2006/11/15(水)


■ ウルムチからトルファンまで

 成田を朝発ってウルムチには夕方に着いた。ウルムチは新疆ウィグル自治区の区都。天山山脈の中央の北側の山麓の都市である。人口は約800万人、大都市である。ウルムチで一泊してかトルファンに向かう。トルファンウルムチの東で、少し手前になる。およそ250kmの距離があるが、今は高速道路が完備され、バスで三時間程の行程である。

 トルファン盆地は天山山脈の東端に抱かれるようにある。トルファントルファン盆地の中心にあるが、天山山脈の雪解け水が豊富に供給されるオアシス都市である。ウルムチからの国道は312号線、上海まで続く世界一長い国道である。トルファンまでは天山山脈の山間を縫うように進む。このあたりはかつてのシルクロードの天山北路の入り口にあたるところである。

 途中で、風力発電の鉄塔が無数とも思われるほど群立しているところにでる。風の谷といわれるところで、風車の数は250機ほどだという。新疆ウィグル自治区の資源は地下資源だけではない。


■ 火焔山と高昌故城

 トルファンの市街地から東へ行った所に、火焔山があり、火焔山の脇から流れ出てくる川の渓谷の奥にベゼクリク千仏洞がある。火焔山に緑の渓谷があるというのはいまだに信じがたい。その川が平地に流れ出たところに大きなオアシスがあり、その先に高昌故城の広大な史跡がある。

 ◇ ベゼクリク千仏洞

 ベゼクリク千仏洞は、トルファン盆地の北側に位置する火焔山の谷間にある。ベゼクリクとは、ウィグル語で「装飾された家」という意味で、麹氏高昌国と西州ウィグル国が栄えていた6世紀から14世紀まで開かれていた石窟寺院である。14世紀、ウィグル人は仏教を信仰していたがイスラム教の侵入に遭い、ベゼクリク千仏洞の偶像は破壊され、壁画などもはがし取られてしまった。また、今世紀初頭に外国人探検家によって壁画がはがし取られているため現在では一部の仏画が残っているだけである。

 千仏洞は駐車場の下の崖にあった。階段を下りていって振り向くと例のあの風景が広がる。心の準備ができていない。浮き足たったままの見学になってしまった。ただ、誓願図が剥がしとられて壁がむき出すになっている石窟が以外に狭かったことだけが記憶に残っている。

 ◇ 高昌故城

 トルファン市街から東に約45km、火焔山南麓にある高昌故城は、紀元前1世紀から14世紀の間、新彊における政治・経済・文化の中心地の一つであった。

 高昌故城はほぼ正方形をなし、東西1600m、南北1500mにも及ぶ。王城・内城・外城と三部分に分かれ、居住区は北に、手工業区は南にあった。西南から東南にかけての一帯がとりわけ良く残っており、北部は破損が激しい。建物は日乾レンガによって築かれ、アーチ型の出入口が多い。

 中心部分まではロバ車に分乗する。再建された寺院と大きな壁が残る寺院があった。壁には多くのがんがあり、そのすべてに仏像があったようである。今は、痕跡がかすかに残るのみである。

 漢代には高昌壁が築かれたという記録がある。5世紀、蘭州出身の漢人、麹氏一族によって麹氏高昌国が成立し、以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで、約140年間存続した。

 9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれた。高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまった。


■ 交河故城

 交河故城はトルファンの市街から西へ約10km、トルファン盆地の西端にある。東西は最大が330m、南北約1600m、東西を2つの河に挟まれた台地上にあり、天然の要塞となっている。

 漢代の車師前王庭があった所であり、漢王朝の重要な屯田地として、また辺境防御の任務にあった。麹氏高昌国時代、中心は高昌故城に移ったが、交河故城は軍事的拠点として使用され続けた。

 702年には最初の安西都護府がおかれ、唐の西域経営の中心となった。ウイグル王国時代も重要な都市であったが、元代末期、チンギス・ハンの遠征の途中に破壊され、廃城となった。

 南部は一般居民の居住区であり、北部には寺院や仏塔、最北部には墓葬が存在している。各遺構は唐代の都市建築の特色を残し、高昌故城に比べて残存状態が良好である。

 河は細くなっているが、ポプラの林ができている。しかし、暑い。バスを降りて渡されたのは、凍ったミネラルウォーターである。額にあてつつ、見学をすることとなった。

※ WEB記事かの各所から引用させていただいています。