23-04 最近の太子研究

23-04 最近の太子研究

2006/10/26(木)


 「聖徳太子」といえば、用明天皇の皇子で「厩戸皇子(うまやどのみこ)」といわれ、用明の姉にあたる推古天皇が即位するや、甥の聖徳太子は摂政となり蘇我馬子と協力して、冠位十二階の制度や、憲法十七条を制定し、小野妹子を隋に派遣して国交を開き、『天皇記』『国記』 などの歴史書を編纂するなど、革新的な政治を行った。

 また高句麗の慧慈(えじ)から仏教を習い、その信仰も厚く、四天王寺法隆寺を創立し、仏典の造詣も深く、法華経勝鬘経維摩経三経義疏(注釈書)を著作したというのが、一般の聖徳太子像である。

 しかし、これらはおもに『日本書紀』にもとづいており、『日本書紀』は、太子在世時より百年以上も経過した奈良時代に成立したため、当時すでに聖徳太子を敬仰する太子信仰が存在していたので、『日本書紀』の記事にそれが反映され、どこまでが太子本来の事業であるのか明確ではない。

 したがって『書紀』の記事を単純に肯定できないところに、聖徳太子研究の難しさがある。そのため、聖徳太子に対する疑問は古くからあり、聖徳太子批判を学問的に取り上げたのは、明治時代の久米邦武からである。

 氏は古い史料のうち信じられないものはすべて否定して、太子の実像を求めようとした。それについで津田左右吉は、『日本書紀』を徴底的に分析し、聖徳太子の事績とされるものを厳密に批判し、後に附け加えられたものを削除している。

 最近では大山誠一氏が、聖徳太子は実在しなかったという徴底した新説を出した。氏によれば、聖徳太子に関するオリジナルな史料は、『日本書紀』と法隆寺系の史料であるが、『書紀』が太子の一生を詳しく記しているのに、法隆寺釈迦三尊像薬師如来像の光背銘文、天寿国繍帳、三経義流等の法隆寺系史料が、国家事業である『日本書紀』には一切見えないのであるから、法隆寺系史料は『日本書紀』成立(720年)以後に作り出されたものであるとした。

 その結果、「厩戸王」という王族は存在したが、「聖徳太子」という没後に贈られるおくり名(誼号)を有する聖人は、『書紀』の編纂過程で作り上げた架空の人物であり、したがってこれまで太子の事績とされていたものは、ほとんど認められないことになる。
 
 古来からの聖徳太子批判は、ここに至って、聖徳太子の実在否定という極論にまで到達したのである。

引用・参照URL
 http://www.intership.ne.jp/~aoyama/shotoku-taishi.htm