22-26 聖徳太子とアショカ王

22-26 聖徳太子アショカ王

2007/4/12(木)


 仏教の受容のもたらすものは想像以上に大きい。仏教の受容は漢字と仏像をもたらすことを意味する。それまでは、言霊思想が支配的であった。仏教の受容は、言葉を漢字という文字で表し、神を像であらわすことを受け入れることを意味する。当時の日本人にとっては大きな衝撃であったことは想像できる。

 物部氏が、「まさに今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ」(欽明紀)、とか、「何ぞ国神に背きて他神を敬びむ」(用明紀)と述べ、頑強に抵抗したことが日本書紀に記されている。物部氏の抵抗の頑強さは、仏教が日本の文化の根底に関わることを知っていたゆえともいえる。

 仏教の受容を可能にしたのは、改革の主体が聖徳太子蘇我氏という強力な権力を持っていたからである。太子を「普遍的帝王」ということがある。世界史上の最初の普遍的帝王はインドのマウリア朝のアショカ王である。

 二人には共通項がある。外圧の存在と国内統一である。マウリア朝の成立は、アレクサンダー大王の遠征がそのきっかけになっている。アレキサンダーインダス川を渡ったのは前326年、マウリア朝が成立したのは前317年である。外敵の侵入によって、インドは初めて一つの国になった。インドは今日でも多様な人種、民族、言語、宗教によって構成されている。当時はより多様な要素をもっていた。アショカ王はその多様なインドをまとめるために仏教を国教とした。

 アショカ王は、文字も取り入れた。アショカ王碑文が残されているように、詔勅や施政の方針を領土の全体に碑文というかたちで示した。仏教の経典の成立(書写の始まり)もこのアショカ王の文字の採用が大きく影響していると考える。神聖な教義を文字で表すことはインドでもタブーであった。しかし、タブーは、アショカ王によって破られたのである。

 聖徳太子の仏教と漢字の受容も同じことである。聖徳太子の摂政就任の直前に、大陸では隋が成立している。長い間、分裂していた中国を隋が統一に成功したのである。この外圧のもとの国づくりというのが太子に課せられた仕事であった。太子は、当時東アジアの普遍的文化となっていた仏教を受容するとともに、中国の柵封体制にはいることなく独立を保つという離れ業で乗り切ったのである。