31-36 仏教の普遍性

31-36 仏教の普遍性

2007/2/21(水)


 仏教は、キリスト教イスラム教とともに世界宗教といわれる。世界宗教とは、地域や民族の差異を超えて世界的規模で信仰されている宗教を指す。本来、一つの民族(あるいは部族)によって信仰される民族宗教が宗教の始まりである。その段階での宗教は、他の民族には理解しきれない独自な思想や儀式を有していることが多い。日本における神道ユダヤにおけるユダヤ教、インド世界におけるヒンズー教などが民族宗教に該当する。

 仏教は、どうして世界宗教たりえたのか。いまだに解くことができない難問である。難問ではあるが、おそらく前述したインドの歴史にその解答のヒントがあるように思われる。

 仏陀が生まれた時代のインドには、ヒンズー教が支配的であった。ヒンズー教はこの頃はこの頃はバラモン教といわれていた。四世紀頃、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間宗教が融合することによりヒンズー教が成立した。ここでは、バラモン教も含めてヒンズー教ということにする。

 ヒンズー教は、儀式が大きな意味を持ち、また、カースト制度と不可分であった。仏陀は、「悟り」には身分も儀式も必要でない、禅定を通じて縁起の知恵を体得することが悟りにいたる方法である、といった。そのように私は理解している。

 仏教は、借金がある場合などの例外を除いて、すべての人にその門戸が開かれていた。女性の出家者も認められていた。しかし、仏教が誰にでも容易に理解できるものではなかった。仏陀が悟りを開いたとき、その内容の余りの難解さのゆえに、説法を断念しようとしたくらいである意。もちろん、シャーリープッタのような優れた弟子もいた。シャーリープッタは、仏陀の他の弟子から、仏陀が縁起を説いているという一言を聞いてすべてを理解し、「知恵第一」といわれたと伝えられている。

 仏陀は、相手と時と場合に応じて説法し、相手が自ら気付くのを待つ、という方法がとられた。待機説法といわれる。その伝統は仏陀の死後も弟子たちによって継承されたに違いない。しかし、このような方法で、仏教がインド全体に広がってゆくことはできなかった。

 仏教の普及の最初の転機は、マウリア朝の成立時にある。マウリヤ朝(紀元前317年頃 - 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。チャンドラグプタはシュードラ出身と伝えられている。彼にとってヒンズー教は足枷のようなものでしかなかった。彼が自らの権威付けのために仏教に近づいた可能性は十分にある。第二の転機は、同じくマウリア朝の第三代の王、アショカ王である。

 アショカ王は、インド半島のほぼすべて、西は現在のアフガニスタンにまで及ぶ大帝国を築いた。しかし、カロリンガ地方の平定にあたって多大の死者を出したことを深く後悔し、仏教に帰依したといわれる。彼の贖罪意識が、仏教の「業」の思想と結びついたのであろう。また、マウリア朝の版図は、広くいくつもの地域を含み、そこには異なる民族、異なる宗教の人々が住んでいた。ギリシアの文化や人々もそこにはいたのである。

 民族と地域を超えた世界宗教が、統治のために求められた。民族儀式とは無縁だった仏教は世界宗教に相応しいものであった。しかし、反面、仏教も変質し、この段階で普遍性を獲得したのではないだろうか。アレクサンドロス大王のインド進入によるヘレニズム文化との接触が、マウリア朝の成立以前に生じていたことなどがこの変質の準備となったと考えられる。