31-39 普遍的帝王とは

31-39 普遍的帝王とは

2007/5/29(火)


 仏教の歴史にとって普遍的帝王の登場は大きな意味を持っている。普遍的帝王は仏教を国教的な位置につけ、仏教の発展と普及に貢献した。普遍的帝王とは何か。また、なぜ普遍的帝王は仏教を重視したのか。最初の普遍的帝王とされるのは、マウリア朝のアショーカ王である。中村元によれば、後の時代のビルマミャンマー)のアナウラーター王(1010年即位)、カンボジアではジャヤヴァルマン七世(1181~1215年)が同じ類型に属するという。

 普遍的帝王とは何か。
 
1.部族国家の枠をはるかに超えた一世界ともいうべき広大な地域をはじめて支配化においた帝国の建設
2.部族の違いを超えた遍的価値の獲得
3.普遍的価値の明示的表現
4.普遍的価値に人民の福祉を内容とする
5.他の宗教や文化に寛容である
6.仏教などの普遍的宗教を国家的宗教として採用する
7.外国との交易を重視、国内的にも商業の自由化に努める
8.コスモポリタン的雰囲気

 では、仏教の普遍性はどこに求められるか
 実は、まだ、よくわからないのである。

1.部族宗教は固有の生活様式や文化と結びついた儀式がある。
2.仏教は、新興の勢力(交易商人、武人) などに支持されたように固有の儀式tからは自由であった。
3.仏教教団はカースト制にとらわれなかった
4.経典の書写も特徴である。
5.

以下は引用である
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 ここで普遍的国家というのは、民族の差違、時代の差違を超えて実現されるべき普遍的理法の存在することを確信していた帝王の建設した国家をいう。それは世界のいろいろな文化圏において歴史上の一定の時期に成立したものである。すなわち、古代において、一つの文化圏におけるもろもろの部族の政治的軍事的対立の状態が打ち破られて、その文化圏の政治的統一が確立された場合に、その文化圏における普遍的国家というものが成立した。そうして、それらの文化圏においては、次のことがらが起こった。

1.その文化圏全体を支配統治する一つの強大な国王(または統治者)が出現し、かれの属する王朝の基礎が確立する。
2.精神的な面においては、諸部族対立の時代には見られない新しい指導理念が必要とされる。
3.その指導理念を、あるいはその指導理念の精神的な基調を、なんらかの普遍的な世界宗教が提供する。
4.その指導理念は、確定された文章表現(たとえば詔勅のかたちで、公(おおやけ)に一般の人びとに向
かって表現される。

 こういう思想的現象は、古代諸国において一定の時期に起こったことが認められる。東洋ではまず古くインドで、アショーカ王(紀元前三世紀)が現われてその範型を示している。つづいて、日本では聖徳太子チベットではソンツェンガンポ王(617~651)によってそれぞれの国家ならびに文化の基礎が固められた。南アジアではさらに遅れて現われ、ビルマではアナウラーター王(1010年即位)、カンボージァではジャヤヴァルマン七世(1181~1215)が同じ類型に属する(シャムにはこういう類型の帝王が見当たらない。シャムの仏教はカンボージァを経て422年にシャムに入って来たが、ひとりでに入って来たので、とくに特別の帝王の力を借りたのではないらしい)。

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 シナでは梁の武帝や、あるいはむしろ隋の文帝(在位581~604年)がそれに当たるのではなかろうか、と考えられる。とくに隋の文帝は排仏と戦乱のあとをうけて、シナ全体を統一しシナ仏教全盛時代の端緒を開いたのであるから、やはり右の諸王と対比することができるであろう。隋の文帝はみずから「転輪聖王(てんりんじょうおう)」と称していた。

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 聖徳太子は、諸部族対立の時代を乗り越え、仏教という新しい指導理念を用いて、日本国を支配統治し、王朝の基礎を確立した。そしてその指導理念を憲法十七条という確定した文章表現で一般の人びとに向かって表現した。

引用・参照
中村元 『日本の名著2 聖徳太子中央公論社 1970 P36