22-06 日本書紀 α群とβ群

22-06 日本書紀 α群とβ群

2006/10/26(木)


 養老4年(720)に完成した『日本書紀』30巻は、わが国最古の勅撰の国史で、いわゆる六国史の最初に当たる歴史書である。神代から持統天皇の時代までの出来事を、漢文により編年体で記している。

 日本書紀は、歌謡の部分は万葉仮名、つまり日本語の発音に漢字を当てはめて書いてある。森博達氏の研究によれば、万葉仮名の音韻等の分析によって、使われている文字はα群(巻14~21、24~27)とβ群(巻1~13、22~23、28~29)の二群に分かれるという。

 α群は当時の中国の北方音であり、日本語を中国音で正確に表記したこと、さらに文章は教養のある中国人による正統的な漢文である。一方、β群は、漢字使用上の誤りが多く文章も和風の漢文であることから、日本人学者の手になると考えられた。

 仏教伝来と聖徳太子に関連するところは、巻第十九(欽明天皇)から、卷第ニ三(舒明天皇)までである。α群とβ群の両群にまたがっている。ちなみに十七条憲法は、巻第ニニ(推古天皇)のところに記載されている。
 ◆ α群
 巻第十九 欽明天皇 
 巻第二十 敏達天皇
 巻第二一 用明天皇崇峻天皇(崇峻紀五年以降はβ群)
 ◆ β群
 巻第ニニ 推古天皇 
 巻第ニ三 舒明天皇

 森博達氏によれば、この辺りの撰述の経緯は次のようになる。持統三年(689)に「浄御原令」が撰上される。その編纂にあたっていた、唐人の続守言と薩弘恪は書紀の撰述を始める。両名は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。もちろん正格漢文も綴れる。続守言が巻十四(雄略天皇)からの述作を担当したが、巻二一「崇峻紀」の終了間際に倒れた。薩弘格は、巻二四(皇極天皇)から始めて巻二七までの述作を修了していたが、間もなく卒去した。
 
 そこで、日本人文章学者の山田史御方があとを引き継ぐこととなった。そのころ、書紀の編纂方針に大きな変革が起こり、神代から安康までも撰述する必要が生じ、これも御方が書いた。持統崩御後、紀朝臣清人が持統紀(巻三十)を述作した。こうして日本書紀三十巻が完成した。

 そのころ、書紀の編纂方針に大きな変革が起こり、神代から安康までも撰述する必要が生じ、これも御方が書いた。持統崩御後、紀朝臣清人が持統紀(巻三十)を述作した。こうして日本書紀三十巻が完成した。

 平安時代の初期のものと思われる写本が奈良博物館にある。『書紀』の最古の写本である。

 引用・参照
 http://www.neonet.to/kojiki/ronko/kiki-seiritu.html