22-21 大陸思想の摂取 4 仏教

22-21 大陸思想の摂取 4 仏教

2006/10/27(金)


■ 仏教思想

 仏教が初めて正式に朝廷に伝えられたのは、やはり六世紀の前半、欽明天皇のときで、百済聖明王が使を遣わして、金銅釈迦仏像一体と幡・蓋と経論を献ったという。周知のように、『日本書紀』には同天皇一三(五五二)年一〇月の条にその記事があるが、『元興寺縁起』・『上宮聖徳法王帝説』などの古い伝えには、欽明天皇の戊午(五三八)の年となっている。欽明紀には戊午の年はないが、このあたりの『日本書紀』の紀年には問題かあるので、欽明天皇か即位して七年目ころの戊午(五三八)の年と考え考えるのがよいであろう。もっともこれ以前に司馬達止という帰化人か継体天皇のときに来朝して仏像を礼拝していた、ということを述べた書物が『扶桑略記』に引用されていて、そういう可能性もないわけではないか、しかし、民間にすでにある程度広まっていたという見解には賛成できない。

 したがって、伝来の事情は儒教陰陽道の場合とよく似ており、一般民衆の信仰としてよりも、高級な文化として社会の上層部にまず受け入れられた。そして仏教の教理そのものは、高い学問的教養を必要としたから、初めのうちは、やはり個人教授的な学習方法によって、ごく一部の人々の間に理解されたにすぎなかったと考えられる。『三経義疏』を著述したと伝えられ、「世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり。」のことばを残した聖徳太子は、その点からいって、当時としては特殊な孤立した存在だったとみてよいであろう。その後、太子が派遣した多くの遣隋留学生が経典をたずさえて帰国し、講経などを行なうようになってから、しだいに教理の研究か進み、八世紀に入るころから学僧が輩出するようになるのである。

 しかしながら、教理を別とするならば、仏教の信仰は、儒教などに比べてはるかに速く国内に普及した。『日本書紀』によると、推古天皇二(五九四)年ころから諸臣・連らが競って寺を造り始めたというが、孝徳紀大化元(六四五)年八月の条にみえる詔では、「天皇より伴造に至るまで造るところの寺は、営むこと能はざれば朕みな助け作らん。」といっているから、七世紀に入ると、伴造すなわち朝廷の中下流豪族までが、みな一族の寺を造るようになっていたことが知られる。推古紀三二(六二四)年九月の条には、当時存在した寺四六、僧尼一三八五人という数字をあげていて、それが大して誇張でないことを、飛鳥時代寺院他の調査結果が明らかにしつつある。

 このような急速な浸透のおもな理由としては、まず第一に、現世の利益と死後の冥福を保証するという呪術的な面が、当時の人々に喜んで受け入れられたことがあげられる。「この願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せん。もしこれ定業にして以て世に背くものならば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らん。」という法隆寺金堂釈迦三尊光背銘の文章などは、そのことをよく表わしている。これは、当時の人々が一般には、在来の神に対するのと大差のない態度をもって仏教を受け取ったことを示すものであって、異教というような意識はあまりなかったとみてよいであろう。『日本書紀』には、崇仏可否をめぐる蘇我氏物部氏の激しい争いが詳しく述べてあるが、それは一つには当時の政冶的抗争がからまった上でのことであり、また一つには、その原史料が僧侶らの手で誇張して書かれていたためであろう。

 また仏教浸透のおもな理由として、第二には、当時の人々か仏教の付随的要素がもつ美的・感覚的な魅力に強くひかれたことがあげられる。神秘的・超越的な仏・菩薩などの像と、それをとり巻く堂内の諸工芸・絵画、器楽の伴奏をともなう読経の独得な音楽的効果、七堂伽藍をそなえる堂々たる寺院建築の威容など、これらのものが全体としてかもし出す異国的な雰囲気は、当時の人々に限りなく好ましいものであった。そのため、蘇我氏百済から諸工人を招いて、まず飛鳥寺法興寺)を建立すると、四天王寺・法降寺をはじめ大小の寺院か続々と営まれ、仏教美術にいろどられたいわゆる飛鳥文化が、七世紀前半にしてすでに開花することになったのである。

 このように仏教の受容においても、本来の教理よりも、その呪術的あるいは付随的要素が明らかに優先していた。このことは、儒教陰陽道などの場合と照らし合わせてみると、古代における大陸思想の摂取の仕方のー般的傾向であったということができるであろう。


※ 以上のシリーズは、石田一良編の『(日本古代における)大陸思想の摂取』の引用です。段落の区切り方、誤植と思われる部分、フリガナ等について若干の変更をしてあります。
http://jpweb.jp.tku.edu.tw/japanese/5/P32.HTM