22-08 寺院建築 塔から金堂重視へ

22-08 寺院建築 塔から金堂重視へ

2006/10/26(木)


 飛鳥時代に建立された寺には三重の塔や五重の塔がある。寺院には、塔の他に、金堂や講堂がある。金堂には仏像が安置されている。講堂は集会して仏教を学ぶところである。この時代には、金堂よりも塔が重要視されていた。塔の礎石には釈迦の遺骨である仏舎利が埋められた。

 敏達天皇13年(584)9月に百済から弥勒の石像二体がもたらされた。蘇我馬子は槻曲(つきくま)の宅に仏殿を作ってこの二体の石像をまつった。この法会の席で司馬達等の食事の上に舎利が現れて馬子に献上された。馬子は、翌14年(585)の2月に、大野丘の北に塔を建て、法会を催すとともに、先の舎利を塔の柱の先端に納めた。「柱」であること、柱の「先端」に仏舎利を納めたことなど、後の塔とは様相を異にするが、わが国での最初の「塔」である。

 596年馬子は本格的な寺院の建立に着手する。飛鳥寺法興寺)である。日本最古のお寺である。近年の発掘調査で、東西200m、南北300m、金堂と回廊がめぐらされた大伽藍の寺院であったことがわかった。現在の建物は江戸時代に再建した講堂(元金堂)のみを残す。

 法起寺法隆寺の北東約2kmのところの斑鳩町岡本にある。舒明天皇10年(638)、山背大兄王聖徳太子岡本宮を寺にしたと伝えられている。三重塔以外は室町時代以降に再建されたものである。創建当時は、七堂伽藍を誇る大寺院であった。金堂と塔の位置が法隆寺とは逆の配置となっていた。三重塔は、慶雲3年(706)完成、法隆寺の塔とともに現存する我が国最古の塔である。

 斑鳩寺(再建前の法隆寺)は『日本書紀』によれば天智9年(670)に焼失したとされている。昭和十四年の発掘調査で、塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置の寺院が存在したことが判明した。現在は斑鳩寺の五重塔の心礎が残されている。飛鳥寺法興寺)には五重の塔が建立された。

 塔は芯礎に仏舎利を埋める慣わしがあったことに見られるように、塔はいわば釈迦の墓である。金堂は仏像を安置するための建物である。仏像が金箔に覆われていて金人と言われていて、その金人を安置する建物ということで金堂と言われるようになったという。飛鳥時代にはあくまで塔が寺院の中心で、金堂は従属的存在であった。

 中国においても事情は同じであったが、隋、唐の時代になって塔と金堂の主従関係が逆転した。日本でもそのような変化が見られる。これは、信仰の対象が仏舎利から仏像へ変化したことを意味する。

 山門を入ったところにおかれていた塔が金堂の後ろに回る。さらには回廊の外に位置するようになる。東大寺には創建当時、七重の塔が二塔もあったが、回廊の外に配置された。東大寺の場合は、大仏殿の大仏の後ろに創建当時の伽藍の縮尺模型が展示されている。往時の七重塔の壮麗さを偲ぶことができる。