22-04 仏教公伝でもたらされたもの

22-04 仏教公伝でもたらされたもの

2006/10/26(木)


■ 公伝の年次

 日本に仏教が公伝された経緯についての記述から、公伝によってどのようなものがもたらされたのかを知ることができる。

【戊午年説(538年説)】
1-1 『元興寺伽藍縁起併流記資財帳』
 「大倭国の仏法は、斯帰島宮に天下治す天国案春岐広庭天皇(欽明)の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天下治す七年歳次戊 午十二月に度り来るより創まれり。百済聖明王の時、太子像并びに潅仏の器一具及び仏起を説ける書巻一鐘を度」すとある。

1-2 『上宮聖徳法王帝説』
 「志発島天皇(欽明)の御世、戊午年十月十二日、百斉国主明王、始めて仏像経教併びに僧等を度し奉れり。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授け興隆せしむるなり」
 とあって、欽明天皇の御世、蘇我稲目が仕えていた時、天皇の治世七年目の戊午年(五三八)に 百済聖明王明王は諺)が仏像・経典・僧らを送って来た。

【壬申年説(552年説)】
2 『日本書紀』の欽明天皇十三年(五五三)の条
 「冬十月、百済聖明王、西部姫氏達率怒痢斯致契等を造して釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る」とあって、欽明天皇の十三年(この年は壬申)のこととしている。


■ 仏教の公伝でもたらされたもの

 私の関心は、公伝とともにもたらされたものにある。『書紀』には「釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋 若干・経論若干巻」、『元興寺縁起』には「太子の像並びに潅仏の器一具、及び仏起を説ける書巻一」、『法王帝説』には「仏像経教並びに憎等」とある。

【仏像】
 『縁起』には「太子の像」、『法王帝説』には「仏像」、『書紀』には「釈迦仏」とある。一体どのような仏像が伝わったのか。「太子の像」というのは、出家前の王子であった釈迦、すなわちシッダッタ太子のことであろう。シッダッタ太子は倚坐、すなわち椅子に座って片足をもう一つの足の腿にのせている座り方の像で表現されることが多かった。シッダッタ太子の像は釈迦像でもある。また、倚坐像は弥勒像の像容でもある。公伝とともに伝わった仏像は、弥勤像を意味すると考えてよいのではないか。

【経典】
 『書紀』に「経論若干」、『縁起』は「仏起を説ける書巻」、『帝説』には「経教」とある。一体どのような経典がもたらされたのであろうか。

【僧】
 僧の記述があるのは『帝説』のみである。僧が来たというのは『書紀』の記述で確認できる。欽明十五年に、「五経博士王柳貴を、固徳馬丁安に代ふ。僧曇慧等九人を、憎道深等七人に代ふ」とある。仏像とともに九人もの僧が来朝したことがわかる。

【その他】
 『書紀』に「幡蓋若干」、『縁起』には「潅仏の器一具」とあるが、『帝説』には何の記述もない。幡蓋(はたきぬがさ)の蓋は天蓋、幡はのぼりばたのこと。幢も幡も蓋とともに仏の荘厳にもちいられる。これらの記述から、仏教が儀式を伴うものであることが意識され、その儀式の道具も伝えられたことが推測される。