22-05 わが国最初の仏塔

22-05 わが国最初の仏塔

2006/10/26(木)

 
 仏教の移入に蘇我氏が果たした役割はよく知られている。仏教が公式に伝来したとされているのが538年。蘇我稲目(?~570年 大臣 536~570年)の代のことである。この伝来によって天皇が仏教を奉ずることにはならなかった。仏教の受容には日本国内に異論もあり、天皇は仏教に対して一定の距離を保っていた。そこで、わが国最初の寺院は蘇我馬子によって建立された。『日本書紀』の記述によればおおよそ次のようである。


1)敏達天皇[巻二十α群]の13年(584)秋9月、「弥勒の石像」と「仏像」がもたらされた。馬子はその仏像二体を請いうけた。播磨の国で還俗していた高麗人の恵便(えべん)を仏法の師として、司馬達等(しめたつと)の娘と弟子二人を出家させた。

 「仏殿」を馬子の家の東方に造って、「弥勒の石像」を安置した。三人の尼を招いて法会の斎食を供した。このとき、達等は斎食の上に仏舎利を見つけて馬子に献じた。馬子はまた石川の家に「仏殿」を造った。翌14年2月、馬子は「塔」を大野丘の北に起てて法会の設斎を行った。達等が前に得た舎利を「塔」の柱頭に収めた。

 3月に物部守屋が馬子の病気にかこつけてここを襲う。その「塔」をきり倒して火をつけて焼く。併せて「仏像」と「仏殿」を焼く。焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせた。

2)用明天皇[巻二一α群]の2年(587)に天皇が病を得て亡くなられようとするとき、司馬達等の息子が、天皇のために丈六の「仏像」および「寺」を造り奉ります、述べている。

3)その年、崇峻天皇[巻二一α群]の7月には、蘇我馬子と廃仏派の物部守屋と雌雄を決する戦いとなる。この戦いには厩戸皇子も14歳で参戦する。戦いで劣勢になった馬子と厩戸皇子は、それぞれ、戦に勝つことができれば、「寺塔」を建立し、仏法を広めることを誓う。

4)崇峻天皇[巻二一β群]の5年10月に、法興寺の「仏堂」と「歩廊」が建つ。推古天皇の元年(592)[巻二二β群]には、法興寺の塔の建設について「仏の舎利をもって、法興寺の刹の柱の礎の中に置く。丁巳に刹の柱を建つ。」と記述されている。


 大野丘の北の「塔」はわが国の最初の仏塔である。一体どのような形であったのか。ここのところを、宇治谷孟 全現代語訳『日本書紀』下(講談社学術文庫)は、「先に達等が得た舎利を、塔の心柱の下に納めた。」と意約している。これに対して、『日本書紀(四)』(岩波文庫)は、<注>で次のように述べている。「塔は本来仏舎利を納める施設で日本古代の塔婆ではみな舎利を納めたが、本条のように塔の柱頭に納めた場合と心礎に納めた場合など種々あった。」

 とすれば、柱頭という表現が間違いということはできない。法興寺の記述の「刹」というのは、やはり、『日本書紀(四)』(岩波文庫)<注>によれば、仏塔の中心の柱のことである。法興寺はわが国最初の本格的な伽藍の仏教寺院であった。その場合も、仏舎利と中心に建てられた柱がもっとも重要なものとして意識されていたことが分かる。

 さらに大野丘では「起てた」、法興寺では「建てた」という表現になっている。大野丘の塔が一本の柱であった可能性は高い。しかし、『元興寺縁起』にはこの塔について「止由良埼(とゆらさき)に刹の柱を立て」とある。元興寺というのは法興寺飛鳥寺)の別命である。もうひとつ、興味ある指摘をしたい。

 森博達氏によれば、大野丘のところ(α群)は正確な漢文を操れる唐人(唐からの渡来人)、法興寺のところ(β群)は漢文に習熟していない日本人によって書かれた、という。森博達氏の指摘を前提とすれば、唐人は漢文の知識では勝っていたが、仏塔の建築に関する知識を欠いていたのではないか、と疑いも出てくる。漢文の書写能力では劣る日本人の方が寺院の建築に関してはより正確な知識をもっていたように思われる。法興寺に関しては最近の発掘によって、『書紀』の記述通りであったことが確かめられている。

 発掘調査されれば分かる可能性があるのだが、その場所がいまだ確定されていない。

文中のα群とβ群に関しては、当ブログの『No.43 日本書紀 α群とβ群』をご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/27152066.html