22-05 法興寺(飛鳥寺)の建立

22-05 法興寺飛鳥寺)の建立

2006/10/26(木)


 法興寺飛鳥寺)は百済からの派遣技術者の指導によって、596年11月に完成した。中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる配置の壮麗な伽藍だった。

 日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子蘇我馬子大臣らが物部守屋大連を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天興大神王、起立寺塔、流通三宝」と戦勝を祈願し、その目的が成就したので「依本願、於飛鳥地、起法興寺」とあるに由来する。

 かくして、法興寺の起工が行われ、崇峻天皇三年冬十月に「入山取寺材」とあり、崇峻天皇五年冬十月・推古紀元年春正月壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることができる。また約五年後の推古紀四年冬十一月の条の記載によれば、このとき、寺院の建築が一応完成し、僧二人が飛鳥寺に住することになった事情が判明する。

 しかしその時点では、まだ本尊の鋳造安置は未完成であったらしい。推古紀十四年夏四月乙酉朔壬辰からは、約一ヵ年の歳月をかけて本尊丈六銅像と繍仏を製作したことがわかる。これらのことは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にみえる「露盤銘」や、「丈六釈迦光背銘」などに、ほぼ同じ内容のことが記載されている。

 以上は、下記URLからの引用である
  http://www.asukamura.jp/data.asp?cd=136

 昭和31年に法興寺が発掘調査された。そのときの様子が、直木孝次郎 『奈良』 岩波新書 に書かれている。以下に引用する。

 注意されるのは、地下約三メートルの深さにすえられた塔の心柱の礎石の上から、舎利容器その他の遺物が発見されたことである。塔の心礎が地下深く存在することは法隆寺その他にも例があって、それほど珍らしいことではない。しかし、舎利容器とともに、勾玉・管玉・切子玉など各種の玉類、金環、鉄の小札をつづりあわせた鎧、馬鈴、蛇行状鉄器など、六世紀の古墳の副葬品と同種の品々が出土して、人々をおどろかせた。現地の見学会でそれらの遺物の陳列をみたとき、私は横穴式古墳の発掘をみにきているような錯覚を感じたことを思いだす。

 地上には日本人がいままでみたことのない高層建築、五重の塔がそびえ、主として百済から渡来した博士・工人たちの伝えた技術によって作られた瓦が日に光り、九輪・露盤が輝いているが、その基底には古墳へのお供えと同じ品物が、仏舎利をかこんで埋められている。在来の日本人にとっては異質の文化であるはずの仏教と、固有の信仰とが、混合し併存している。進んだ文化を受けいれつづけてきた日本文化の基本的な.ハターンの一つであるかもしれないが、このような文化のありかたが、飛鳥文化のいちじるしい特色のように私には思われる。