22-09 飛鳥時代の仏像 1

 日本に仏教が公式に伝わった欽明天皇7年(538)から孝徳天皇の大化元年(645)までを飛鳥時代と呼んでいる。飛鳥時代は仏教の公伝とともに始まった。仏教公伝の年については、日本書紀には、欽明天皇13年(552)と記されているが、「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明天皇戊午年とある。これは538年の事と考えられ、これが通説になっている。

 仏教伝来当初の仏像については、遺品が少ない。日本書紀によれば、仏教公伝の際には、百済聖明王が金銅製の釈迦仏像を献じたとされる。各地に残る遺品や伝説を見ても、小金銅仏が多く伝えられた事が想像される。金銅仏以外では、敏達天皇13年(584)に百済から渡来した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒石仏を請来し、蘇我馬子が仏殿を建立してそこに安置したと伝えている。

 これらは、史実として日本書紀等に記されているものであるが、仏教は公伝よりも早く、渡来人によって日本に伝えられていた。新潟・関山神社の菩薩立像、宮城・船形山神社の菩薩立像、長野・観松院の菩薩半跏思惟像、奈良神野寺菩薩半跏思惟像、和歌山・極楽寺の菩薩半跏思惟などは、公伝のものとは別に一部の渡来人が秘かに将来し、仏教を信仰して安置していたものと考えられる。

 我が国の最初の本格寺院は、渡来人と密接な関係にあった蘇我馬子が、崇峻元年(588)に建立した法興寺飛鳥寺)である。本像は、何度も火災にあっており、頭部の鼻より上の部分と右手以外はほとんどが後補であるが、服制等は当初のものを踏襲していると思われる。また、その顔は面長で、耳が大きく長く、唇には微笑をたたえている。

 本像のように厚手の衣を通肩にまとった服制や面長な面相などは、中国で460年ごろに開鑿(かいさく)された雲崗石窟の中期以後の諸像にその源流が求められていた。雲岡石窟の初期のものは、曇曜五窟(どんようごくつ)と呼ばれ、石窟のうち最末期と考えられる第十六窟の大仏を除いて、いずれも薄手の法衣を体に密着して纏うインド風の着衣をつけている。

 しかし、第十六窟の本尊や中期以降の諸像はこれとは異なり、僧祇支(そうぎし)の上に厚手の天衣を両肩を覆ってつけ、衣の端を左腕にかける着衣法をとっている。この着衣法は、かつては北魏皇帝の服制をとり入れたものと考えられていた。しかし、近年に至って、四川省茂県で発見された南斉の永明元年(483)銘の如来像を初め、中国南朝の仏像が発見され研究が進むにつれて、南朝の仏像にもすでにこの着衣法が見られることから、これは北魏特有の形式ではなく、あるいは南朝で工夫され、鮮卑(せんぴ)族の建てた北魏漢民族の優れた文化を学びとった際に、北魏に伝えられたものと考えられるようになってきた。

中国南朝の遺品としては、

元嘉14年(437)金銅如来坐像 劉宋 永青文庫
元嘉28年(451)金銅如来坐像 劉宋 フリア美術館蔵
永明元年(483)石造如来坐像
普通4年(523)石造釈迦及び諸尊 梁 四川省成都万仏寺址出土
中大通5年(533)石造釈迦及び諸尊 梁 四川省成都万仏寺址出土
中大同元年(546)石造釈迦三尊及び二羅漢像 梁
中大同3年(548)石造観音及び諸尊 梁 
中大同7年(541)如来三尊像 梁 上海博物館蔵

等が知られるが、いずれの像も飛鳥寺本尊と同じ服制に造られている。また面相は面長が面相や、長く大きな耳、杏仁形の目や微笑をたたえた仰月形の唇等の特色も中国の南北朝の仏像や朝鮮三国時代の仏像と共通点が多い。

引用・参照
 神奈川仏教文化研究所
 http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/jidai/asuka.html

2006/10/26(木)