22-20 大陸思想の摂取 3 陰陽道

22-20 大陸思想の摂取 3 陰陽道

2006/10/27(金)


■ 陰陽道(おんようどう)

 陰陽道は、陰陽の二気と木火土金水の五行の相互関係によって天文・自然などの諸現象を説明する、いわば素朴で非科学的な自然科学であるが、この陰陽五行説にもとづいて『易経』を占術に利用した易占や、経書を解釈しなおした讖緯説(しんいせつ)、あるいは人事が天に感じで祥瑞(しょうずい)や異変が生じるとする天人感応思想などをもその内容としている。わが国ではこれを、中国でかなり高度に発達していた天文学・暦学と並ぶ方術のーつとして採用したが、その体系的受容は、やはり六世紀に入ってからとみられる。

 すなわち欽明紀一四(五五三)年六月の条に、朝廷は百済からの使者に対して、医博士・易博士・暦博士の交替の期が来たから、かわりの博士を送るべきこと、および同時にト書・ 暦本と種々の薬物を送るべきことを命じた、という記事があり、翌年二月の条に、百済がこれに応じて易博士の王道良らを貢上したという記事がある。これらの記事は、この少し前から易博士が交替制で来朝していたことを物語っているが、この易博士というのは、同時にト書を要求しているところからみて、陰陽道の学者であることは明らかである。『周書』異域伝などによると、このころ百済では南朝の学芸をとり入れ、陰陽五行説やト筮・占相の術などが流行していたというから、おそらく朝廷は、五経博士の交替派遣が始まると、まもなくそれと同じやり方で易博士なども派遣するように要求したのであろう。したがってその受容の仕方は、儒教の場合よりもやや能動的だったということができる。

 また、その学習方法もやや違っていたらしい。右の易博士については直接にはわからないが、後に推古天皇一○(六〇二)年に百済僧の観勒が暦本や天文・地理の書、遁甲・方術の書をもって来朝したときには、それぞれ学生を選定して暦法・天文・遁甲・方術を学ばせているから、陰陽道については、世襲の専門家を養成しようとしたことが知られる。遁甲というのは一種の星占いで、やはり陰陽道の一要素である。このような学習方式の相違は、陰陽道を知的教養としてよりは、むしろ技術的な知識として受けとったことを物語るものであろう。

 このようにして導入された陰陽道は、その普及においても、儒教よりむしろ速かったらしい。たとえば、記・紀の神代の巻の記述に陰陽の思想の影響がかなり強く見られることや、神武紀元の年代算定が早くも七世紀に讖緯説にもとづいて行なわれていることからもそれはうかがわれる。そしてその普及については、僧旻の存在を見のがすことはできない。

 すなわち彼は、留学二四年の後、舒明天皇四(六三二)年に帰国したが、『大織冠伝』によれば、朝廷の諸氏の子弟を集めて周易を講じたといい、『日本書紀』によれば、大流星や彗星の出現に際して、これを中国の緯書の文章をあげて説明したという。また、大化六(六五〇)年二月に穴戸(長門)の国から白い雉が献上されると、彼は「王者四表にあまねきときは、則ち白雉見ゆ。」などという緯書の語句をあげ、帝徳が天に感応した結果の祥瑞だから天下に大赦すべきだと説いた。朝廷はこの意見を採用して大げさな祝典をあげ、年号を白雉と改めたが、祥瑞思想はこの後、長く律令貴族の政治思想に深い影響を与えることになった。奈良時代改元は、ほとんど全部が祥瑞によるものであった。

 このようにしてやがて陰陽道は、奈良朝の諸学芸の中の重要な一部門を占めることになったのであるが、儒教に比べて、より容易に滲透したのは、やはり陰陽道の諸要素がもっていた卑俗さ、わかりやすさの面、あるいは現実的でかなり呪術的・迷信的な性格が、当時の人々にとって受け入れやすかったためといってよいであろう。

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