仏教は「道」を説く「実践哲学」

■ はじめに

 かつて伝統的には〝仏教とは縁起説である〟という理解が基本的には認められていたように思われる。しかし近年、〝仏教とは縁起説である〟という見解に対して、否定的な見解が示されるようになりました。この否定的見解を代表するのが中村元博士の説である。博士は「仏教には特定の教義が無い」と言われている。
 中村博士は説は最古層の仏典を重視するという考え方に基づいているようである。

■ 最古層の経典と教義

 最古層の経典と言われる『スッタニパータ』、その中でも古いと言われる第4章、第5章には、縁起説は出てこない。また、四諦についても定式化されて表現されてはいない。さらに、ブッダは次のように説いている。

 

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。(スッタニパータ)

 

 教義によって・・清らかなになることができるとは説かない、教義がなくても・・清らかなになることができるとはとは説かない。

■ 「道」の重視

それでは、どうしたら悟りを開くことができるのか。

 

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

「正しい道」である。

■ 「道」とは

 仏教に教義がないとすれば、仏教とは何なのであろうか。博士はこれを「実践哲学」であるという。つまり、中村博士にとって、仏教とは「教義」ではなく宗教的理想に向かう実践のみにかかわる「実践哲学」であるということになろう。ゴータマ・ブッダは、西洋におけるような意味で何らかの「哲学体系」を述べているのではない。そうではなくてただ「道」を説いているのである、とも言っている。

■ 体系化の意味

 博士によれば、仏教には本来「教義」も「哲学体系」もなく、それはただ「道」を説く「実践哲学」にほかならなかったが、後には、釈尊の意図に反して(?)「体系」が立てられ、「教義」が形成されるようになったというのである。
 この体系化をどのように評価するのか。私には「正しい道」の意義が埋没したように思われる。

 

2013/9/27(金)