22-19 大陸思想の摂取 2 儒教思想

22-19 大陸思想の摂取 2 儒教思想

2006/10/27(金)


■ 儒教思想の伝来

 儒教の伝来については、有名な王仁(わに/おうじん)の伝説がある。これは西文氏の祖先に関する伝えであって、『古事記』・『日本書紀』の記事を綜合すると、応神天皇のときに百済の肖古王が阿直岐(あちき)という者に良馬二匹をつけて貢上してきたが、阿直岐がよく経典を読むので、汝にまさる博士がいるかと問うたところ、王仁という者が秀れていると答えた。そこで王仁を召すと、百済王は王仁に『論語』一〇巻と『千字文』一巻を付けて貢上したので、太子の莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は彼を師として諸典籍を学んだ、ということになっている。

 この伝えは、儒教の初伝として古くから重要視されてきたものであるが、しかし記・紀のこのように古い年代の記事を、すぐそのまま信用することはもちろんできない。ことに応神天皇何年という年月や、『論語』・『千字文』を持ってきたとか、太子の師となったというようなことは、後世の造作という疑いがきわめて濃厚である。しかしながら最近では、そういう点を除けば、だいたいこのようなことがあったとみてよいのではないか。しかもそれは任那の成立と関連した事実で、三七〇年代のころのことではないかと考えられるようになってきている。したがって、西文氏(かわちのあやうじ?)の祖で文筆の素養のある人物が、朝廷の朝鮮進出の開始期に渡来したということは、ほぼ事実と認めてもよいであろう。

 しかしながら、これをもって儒教思想の伝来とすることができるかどうかは、やはり疑問である。なるほど、楽浪・帯方の文化は漢・魏系統の文化であって、それは前漢武帝儒教を国家の教学として採用してから後のものである。そして楽浪・帯方両郡にいた中国人の多くは、郡の滅亡後、朝鮮各地に分散した。東文氏の祖も、中国系でもとは帯方郡にいたと称している。したがって西文氏の祖も、百済系と称してしてはいたが、当然、儒教色の濃い文化教養を身につけていたであろう。また、彼らの手で漢字が導入されれば、漢字は表意文字で、個々の文字それ自体にすでに中国人の物の考え方がまつわりついているから、それだけでも儒教的な観念がある程度おのずから伝えられたであろう。

 しかし、多少なりとも体系的な儒教思想となると、やはりいくらか漢文脈の文章にも習熟し始める六世紀以後にならなければ、受容の可能性はまだほとんど考えられないのであって、史らももっぱら史部流の文章を代々継承しており、実際に史料の上にも、儒教思想の影響のあとはまったく現われていない。仁徳天皇の仁政や莵道稚郎子との皇位互譲の話などは、『日本書紀』の編者の潤色とみるほかはないのである。

 これに対して、六世紀になってからの五経博士の来朝はほぼ事実とみられる。『日本書紀』によると、継体天皇七(五一三)年に百済国は、任那と係争中であった己汶の地の領有を認めてもらうために、日本に使者を遣わして五経博士段楊爾を貢上し、朝廷が己汶の領有を承認すると、同一〇(五一六)年に礼使を遣わして五経博士漢高安茂を貢上し、段楊爾と交替させた(史料四)。このころ、百済は中国の南朝としきりに通好して、その文化を盛んにとり入れていたから、段楊爾らは六朝儒学をわが国に伝えたわけである。こういう事情で、わが国としては初めは受動的だったが、その後も継続して博士が貢上されたらしく、欽明紀一五(五二一)年二月の条には、五経博士王柳貴が前番の馬丁安と交替した記事が見えている。

 このように学者が絶えず来朝していれば、当然日本人の間に儒教思想が植えつけられることになる。七世紀に入って、十七条の憲法や十二階の冠位の階名のように、その影響のはっきりうかがわれる史料が初めて出てくるのは、その表われといってよい。しかしこの場合にも、始めのうちは、その普及は仏教のように急速ではなく、おそらく範囲は上流社会のごく一部に限られていた。それは一つには、当時の学問教養の基本的な学習方式が、家庭教師的な個人教授によっており、五経博士にしても、おそらく皇室とその周辺のごく少数の人に教授するだけだったためとみられるが、より根本的には、当時の儒教が訓詁の学としての性格の強いものだったために、高級な知的教養として受けとられ、漢文の文章に未熟な当時の段階としては、広く習得されることが現実に困難だったからであろう。

 やがて、唐から帰国した南淵請安や僧旻のもとに貴族の子弟が集まって講義を聞くというような学習方式も行なわれるようになり、さらに大化改新以後、隋・唐の律令制度を根した国家制度がとられるようになると、儒教は貴族階級の間に一般化しただけでなく、国家の政治理念あるいは為政者の必須の教養とされるにいたったが、しかしけっきょく、思想としてはそれほど広く深く浸透しなかった。それはやはり主として儒教が、あくまで面正しい学問としての内容をもち、人々の現実的な関心をそそる面があまりなかったためであろう。

No.37 大陸思想の摂取 3 に続く