22-18 大陸思想の摂取 1 文字と帰化人

22-18 大陸思想の摂取1 文字と帰化

2006/10/27(金)

 聖徳太子の時代に大陸からの文化や思想がどの程度摂取されていたのかについてまとめて記述されているものは少ない。下記のサイトは、検索エンジンでたまたま見つけたものであるが、よくまとめられているので引用させていただくこととする。

石田一良編『(日本古代における)大陸思想の摂取』より引用
http://jpweb.jp.tku.edu.tw/japanese/5/P32.HTM
淡江大學日本語文学系のサイト


■ はじめに

 古代に大陸から摂取した思想で、後の日本人の精神生活に大きな影響を与えたものといえば、儒教陰陽道・仏教などをあげることができる。これらは、八世紀にはすでに貴族社会の中に完全に定着していたが、その摂取の状況、すなわち、いつだれの手で伝えられ、どのような仕方で受容されたかということになると、具体的な事実は必ずしも明らかでないことが多い。

 それは、おもな史料である『古事記』・『日本書紀』の記事が、年代をさかのぼるほど、そのまま史実として受けとるわけにはいかなくなるからである。そのため、儒教・仏教以下個々の大陸思想の摂取に関する研究は、すでに行なわれているが、各思想摂取の当時の様相について、満足な成果をあげたものを求めることはむつかしい。関晃氏の研究は、そうした困難の中で、できるだけ確かな事実にもとづき、その様相を究めようとしたものである。


■ 文字と帰化

 日本には固有の文字はなかった。一般に文字の発明あるいは使用は、人類の社会が文明の段階に達したことを示す最も重要な標識の一つとされているが、日本では、金属器の使用が始まった弥生文化の時代には、文字はついに発明されず、古墳文化の時代に入って、おそらく西紀四世紀の後半、朝鮮との交渉が密接になったころから、中国の漢字を借用して使うようになったとみられている。

 もっとも、それまでにもまったく文字というものを知らなかったというわけではないであろう。前漢が北鮮に設置した楽浪郡には紀元前からすでに往来していたし、一世紀の半ばには、後漢の都の洛陽にまで使者を送っているからである。有名な『魏志倭人伝にも、魏の明帝が倭の邪馬台国の女王卑弥呼に与えたという詔書の長い文章がのっているから、四世紀以前でも、外交の事務にあたるものなど、ごく少数の漢字を解するものはいたとみるほうが自然である。しかし、文字の国内的な使用ということになると、やはりほとんど皆無だったとみてよいであろう。

 それが四世紀後半から急に漢字の使用が始まったというのは、いうまでもなく朝廷の南鮮進出の結果である。朝鮮では、四世紀前半に楽浪郡とその南隣の帯方郡が滅ぼされて、統一国家を形成した百済新羅が北鮮の高句麗と鼎立する形勢になっていたが、日本の朝廷は国内を統一すると、南鮮の弁韓諸国を支配下に入れ、ここを任那と呼ぶ根拠地にして、百済新羅を半ば服属させ、北方の強国高句麗と抗争することになった。その結果、これらの服属地を通じて大陸の文物や諸技術が流入し、さらに多数の帰化人が渡来するようになり、彼らの手で初めて文字が使われるようになったのである。

 したがって、文字の使用はその後長く帰化人の専門の仕事であった。六世紀のころになると、本来の日本人の間にも、少しずつ文字の使用が普及し始めたようであるが、それまでは、文書・記録の作成、租税の徴収、財物の出納、外交事務などは、すべて帰化人の手で行なわれた。朝廷では、これらの文筆専門家を世襲職に編成し、これを史と呼んだ。史の姓をもつ諸氏はほとんど大和と河内の地方に住み、大和の史らの中心には、応神朝に渡来した阿知使主の子孫と伝える東漢氏の一族の東文氏がおり、河内の史らの中心には、同じく応神朝に渡来した王仁の子孫と伝える西文氏がいた。漢字の音と訓を混用し、漢文脈の中に日本語の語法をまじえたいわゆる史部流の文章は、彼らの手で工夫されて発達したものである。

 このような漢字の導入は、思想史の上でも画期的な意義をもつものだったといわなければならない。それは、一般に文字が、思想の広範囲の伝達、および後代への継承・蓄積を可能にし、それによって思想の発達を格段に促進するものだからであることはいうまでもないが、ただそれだけでなく、日本の場合には、これによって体系的な大陸思想の摂取が初めて可能になったからである。もちろん前述のように、大陸との交渉は紀元前からあったのであるから、四世紀以前に大陸思想の影響が全然なかったということはできない。しかし、そのような影響は断片的なものであって、ある程度体系的な思想が受容される条件は、ほとんどなかったといってよいのである。


∋No.35 大陸思想の摂取 2 に続く