22-15 右前(うじん)

22-15 右前(うじん)

2006/10/26(木)


 養老3年(719年)に左前(さじん)を改めて右前(うじん)とすることが法令で定められた。左前、右前というのは衣服の襟の合せ方である。右を下(手前)にする着方を右前という。今日でも和服は右前に着る。それまでの朝鮮半島風の服装を中国の唐風に改めようとしたものである。『続日本紀』養老3年2月3日条にこう書かれている。

「初めて全国の人々に衣服の襟を右前にさせ、職事(しきじ)官の四等官以上のものに笏(しゃく)をもたせた・・・」。

 笏とは細長い板で、今でも神官が用いている。高位の官吏には笏の携帯と襟の右前も官吏などには義務付けられた。

 高松塚の人物群像が、高句麗古墳の壁画に描かれている人物の服装に非常によく似ている。高松塚の壁画について高句麗の影響を考える説もたくさん提起された。しかし、高句麗はすでに 668年に亡びている。それにももかかわらず、高松塚の服装はまだ朝鮮半島風であって左前になっている。それが養老3年に右前に改められたのだから、高松塚の造られた時期の下限が 719年に抑えられる、というようなことも考えられる。

 「右前」はヤマト朝廷が唐への志向を強めたあかしとみることができる。その裏返しが新羅との関係の冷却で、それを如実に示すのが遣唐使船のコースである。遣唐使は、702年に約30年ぶりに復活し、717年にも派遣された。そのコースは朝鮮半島沿いの安全な「北路」を避け、東シナ海を横断する危険な「南路」に切り替えらている。新羅との関係悪化が原因とされている。
 
引用・参照
http://www.han.org/a/half-moon/hm097.html#No.712