22-14 新暦と旧暦
22-14 新暦と旧暦
2006/10/26(木)
旧暦は太陰太陽暦(たいいんたいようれき)ともいう。太陰暦を基にしつつも、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦である。日本では、明治6年1月1日(旧暦明治5年12月3日)に太陽暦(新暦)が採用され、現在に至っている。それ以前は太陰太陽暦(旧暦)だった。
太陰太陽暦は、太陰暦と太陽暦を折衷した暦で19年に7度の閏月(うるうづき)を設けて調整する。約2年半に一回の閏月が必要となる。これは月の満ち欠けを基準にして作成され、毎月1日は朔(さく)の日で新月、毎月3日の夜に見える月は三日月(みかづき)、15日は満月、と決まっていた。
月はほぼ29.5日周期で満ち欠けをくり返すので、1ヶ月は29日か30日、1年はおよそ354日となる。これに対して、太陽の周期は365.2422日だから、1年におよそ11日ほど暦と実際の太陽の動きとがずれてくる。そのままにしておくと、10数年後には夏と冬が逆転してしまうことになるので、数年に1回1ヶ月余分に入れて、1年を13ヶ月としたのである。この余分に挿入された月を「閏月うるうづき」という。
旧暦(太陰太陽暦)は、604年に元嘉暦(げんかれき)が施行されたのがその始まりである。聖徳太子が亡くなったのが622年。次の暦法である儀鳳暦(ぎほうれき)が施行されたのが697年である。聖徳太子が亡くなった622年には元嘉暦が用いられていた。
元嘉暦(げんかれき)とは、かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。中国では南朝の宋・済・梁の諸王朝で、元嘉二十二年(445年)から天監八年(509年)までの65年間用いられた。
日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇十年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。
参照・引用
・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%98%89%E6%9A%A6
この間の歴史を少しまとめると次のようになる。
553年(欽明14)百済に暦博士の派遣等を依頼
554年(欽明15)百済、暦博士固徳王保孫などを派遣
602年(推古10)百済の僧観勒が来朝、暦法等を献ず
604年(推古12)始めて元嘉暦を施行
660年(斉明6)中大兄皇子、はじめて漏刻(水時計)を造る
676年(天武4)始めて占星台を興す
697年(文武元)元嘉暦を廃し、儀鳳暦を施行
参照・引用
・http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/nihon/ja-nenpyo.html