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運慶

 

 運慶(うんけい、久安4年(1148年)? - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、鎌倉時代に活動した仏師。

 運慶が属する仏師集団は、多く名前に「慶」の字を用いるところから「慶派」と呼ばれる。慶派の仏師は、奈良・興福寺を拠点に活動していた。運慶の父であり師でもあった康慶も、興福寺南円堂本尊の不空羂索観音像(現存)を造ったことで知られる大仏師である。

 運慶の現存最古作は奈良・円成寺大日如来像で、時代区分的には平安末期にあたる安元2年(1176)制作であることが銘文から明らかである。運慶の生年は正確には不明だが、この当時は20代の後半と思われる。

 当時、中央の造仏界では円派、院派と呼ばれる、京の貴族と繋がりの深い仏師集団が勢力をふるい、慶派は勢いがなかった。運慶の作例が東国に見出されるのも、彼が東国に活路を見出そうとしたためと思われる。東国に残る運慶作品のうち、像内納入品の銘記などから運慶の真作であることが明きらかな基準作としては、静岡・韮山の願成就院と、神奈川・横須賀の浄楽寺の一群の像が挙げられる。願成就院阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像は北条時政の発願により、文治2年(1186)に制作したものであり、浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像は和田義盛の発願により、願成就院像の3年後の文治5年(1189)に制作したものである。

 平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであったが、分業制で同じような仏像を量産した結果、無個性でマンネリ化した作風に陥っていた。対して運慶の作風は、仏像の男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などに特色があり、こうした作風が東国武士の好みに合致したものと推察される。運慶は、奈良に当時多く残っていたはずの白鳳、天平時代の仏像の古典を研究し、独自の作風を切り開いたものであろう。

 建久7年(1196)には康慶、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像はその後大仏殿とともに焼失して現存しない。現存する大作としては建仁3年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。 承元2年(1208)から建暦2年(1212)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と、無著・世親像を造っている。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。


■ 運慶の作品

 運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料、作風、技法等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は運慶の真作として異論のないものである。

 ◇奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝)
 ◇奈良・東大寺 金剛力士立像(国宝)
 ◇奈良・興福寺北円堂 弥勒仏坐像(国宝)
 ◇奈良・興福寺北円堂 無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)
 ◇静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(重要文化財
 ◇神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財

 他に、作風、納入品などから運慶作にほぼ間違いないとされる作品として次のものがある。

 ◇和歌山・金剛峯寺 八大童子立像(国宝)
 ◇京都・六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重要文化財
 ◇栃木・光得寺 大日如来坐像(重要文化財
 ◇愛知・滝山寺 観音菩薩梵天帝釈天立像(重要文化財
 ◇個人蔵(東京国立博物館寄託) 大日如来坐像 - 2004年、東京国立博物館の調査によって運慶作とされた。

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