200-25-15 遣唐船の航路

25-15 遣唐船の航路

2006/10/25(水)


 第1回の遣唐使の派遣は630年、大使は犬上御田鍬。ちなみにこの大使は、614年の遣隋使の大使でもある。遣唐使の航路としては、一般的に北路、南島路、南路の三種類があるとされている。

 北路は、初期に用いられた航路で、博多を出てから壱岐対馬を経由し、そこから朝鮮半島の西岸沿いの百済新羅の領海をしばらく北上し、途中から高句麗領を避けるために黄海を横断して山東半島に上陸する、というルートだった。7世紀の遣唐使のほとんどは、陸伝いでいちばん安全と考えるこのルートを辿っていた。朝鮮半島の統一後に新羅との関係が悪化したので、徐々に他のルートに替わってゆく。

 南島路は、8世紀初頭から中頃までの遣唐使が採ったと考えられていたルートで、九州から南西諸島伝いに屋久奄美、沖縄、石垣などの島々を伝って南下し、そこから東シナ海を突っ切って揚子江の河口地帯に向かうというものである。このルートは従来の北路と所要時間としてはほぼ同じだったが、外海を突っ切っていることから、この頃から遣唐使船の遭難率は上昇し始めている。

 これらのルートを経て、最終的に後期の遣唐使が採ったのが南路である。このルートは、博多を出た後に五島列島に寄港し、そこから一気に東シナ海を突っ切るルートであり、上手く行けば航海期間をかなり短縮できるルートだった。ただ、それだけに危険性もいちばん高いルートである。遭難の記録が後期になって急増しているのは、船の構造の原因もあろうが、このルートを採っていたことも一つの要因であることは間違いないように思える。

 その他、渤海を経由して入唐した使節や、新羅経由で帰国した使節などもいる。新羅との関係は政治的には疎遠になっていたが交易は盛んに行われていたことによるものあろう。