25-14 遣唐船の構造

25-14 遣唐船の構造

2006/10/25(水)

※再掲文です。

 最初の遣隋使の派遣は、607年。このときのルートは朝鮮半島を経由するものであった。このとき渡航に用いられた船は、準構造船といわれる比較的簡単な造りの船であった。丸太をくりぬいた丸太舟を基本にして、左右や前後に波除板をつけた船であった。

 単純な丸木舟が内水用だったのに対し、準構造船は外洋の航海も可能であった。弥生時代から用いられており、遣隋使の派遣もこの準構造船で行われた。日本と朝鮮半島との間ではすでに、交流は継続的に行われており、朝鮮と中国との間でも交流は継続されていた。朝鮮半島の沿岸沿いに行けばこの準構造船での渡航の旅もそれほど危険ではなかったと思われる。むしろ、危険になったの遣唐使の時代になってからである。

 最澄空海が乗った遣唐船は難破し辛うじて中国に辿りついた。また、鑑真の渡海も二度の遭難の後、三度目にして始めて成功している。遣唐使の廃止は894年であるが、この廃止の理由の主たるものが遭難の危険性であった。

 遣唐船が危険になったのは二つの理由がある。一つは航路が変ったことである。白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れてからは、朝鮮半島との関わり合いも少なくなり、東シナ海を横断して直接に中国に向かうという外洋の航路を取るようになった。船もより大型のものに変ったが強度的にいまだ不十分だあった。竜骨を用いない平底の箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱かった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。

 もう一つは、出発の時期である。9月というのは台風の襲来の時期である。天文の知識が不足していたこともあろうが、中国の正月の儀式に合わせるという配慮も働いていたことも考えられる。

 中国との交易はその後、平清盛の時代に宋との間で、また、室町時代には明とのあいだでなされる。この時代に至って初めて本格的な大型の構造船が作られ、出発も安全な季節を選んでなされるようになる。