00-05 「仏教書」散策

00-05 「仏教書」散策

2007/1/26(金)


 やはり「目からうろこ」はテーマからはずすことにした。ところで「散策」というのはどのような意味か。このブログの柱の一つがトルファン敦煌西安への旅行の紀行文であり、仏教の史跡を散策するという意味があることは否定しない。旅行は、他にも、韓国、台湾、ミャンマーも行っている。

 奈良・京都のお寺を回るのも、散策であろう。京都・奈良は毎年数回訪れている。飛鳥や斑鳩は何度言ってもよい。「現場100回」という言葉があるそうだが、これは歴史の勉強にとっても言えることある。法隆寺の境内から生駒山地の峰を望むことができないことは驚きであった。

 また、博物館で行われる仏教関係の特別展を見て回るのも、散策ということになるだろう。上野の国立博物館は、機会あるごとに訪れている。奈良斑鳩中宮寺弥勒菩薩像や京都山科の醍醐寺弥勒菩薩像など、思わぬ出会いもある。偶然行った旅先で、思わぬ特別展に出会うこともある。昨秋、金沢の兼六園に行ったときは、石川県立博物館で、『韓国文化への誘い -全羅北道の歴史と文化-』を催していた。

 しかし、散策の中心は、本にある。そのとき、そのときの疑問を解決するため購入しているうちに、仏教関係の本は思わぬ多くなってしまった。千冊を超えるのではないかと思う。最初に購入した仏教の本が何であったのか。書名も著者名も忘れてしまったが、新書版の本であった。「無記」の説明に何か釈然としないものを感じた記憶がある。この「無記」の問題は、最近になって、上山春平さんの文章で溜飲の下がる思いをしたばかりである。

 仏教の本は、古くなることがない。新しい本も増えてゆくが、古くから書棚にある本を何度も読み返すことの方が多い。前述した、上山春平さんの本も、20年以上も前に購入した本である。角川書店の「仏教の思想」全12巻のシリーズでの第三巻である。