31-02 仏教を支えた人たち

 31-02 仏教を支えた人たち

 

 第一の要因は都市の発展が仏教を産み育て、都市の衰退が仏教の衰退をもたらしたということです。つまり、仏教は都市型の宗教で、都市または交易路の周辺に僧院が建てられ、僧たちは都市の大商人や王侯たちの寄進で生活をしていたのです。マウリヤ王朝時代に仏塔を寄進した人々の職業分析では、「王室の人々、官吏、資産者、商人、組合長、手工業者などで、とりわけ資産者、組合長の寄進が圧倒的に多い」ことが指摘され、農民の事例は一つもないという研究があります。

 この紀元前六~五世紀頃の都市と都市文化はどのようなものだったのでしょうか。ガンジス河上流地帯の発展したバラモン教文化は、紀元前八~六世紀にかけて中・下流域にも広がります。この地域は一大森林地帯であり、彼らは鉄器の助けと、耕牛による耕作を発展させて、次第にこの地域を開発していきました。すると雨季には適量の雨が降る気候条件がよい地域の農業は発展して、商工業と都市が急速に勃興していきます。この新興都市の生活は伝統的なバラモン文化やカースト制度をゆるがし、かわってクシャトリアやヴァイシャが発言力を増します。バラモンの祭祀に牛が供儀として殺されますが、農民にはますます大切な動物になっていきます。このようなバラモン文化の動揺のなかで、都市から仏教もジャイナ教も生まれていったのです。

 仏教とジャイナ教の開祖は、ともに非アーリア系でクシャトリア出身といわれます。ガウタマ・シッダールタは、ヒマラヤ山麓のネパールに近い釈迦族の国、カピラバストウの王子、ヴァルダマーナは当時商工業の盛んなリッチャヴィ国の王子でした。二人はともに、牛を殺し神にそなえるバラモンの祭の有効性を否定し、不殺生を戒律とし、カーストを否定し、プラークリット語という民衆語(バラモンは難解なサンスクリット語)で語ったのです。それに同調した都市の富裕な商人たちのなかに、組合長(シュレーシュテイン)・資産者・長者(ガハパティ)がいました。祇園精舎を寄進したスダッタ長者もその例です。

 仏教はカーストを否定し、プラークリット語という民衆語(バラモンは難解なサンスクリット語)で語ったのです。それに同調した都市の富裕な商人たちのなかに、組合長(シュレーシュテイン)・資産者・長者(ガハパティ)がいました。祇園精舎を寄進したスダッタ長者もその例です。

 第二・第三の外的要因は、ヒンドウー教の発展とカースト社会の形成です。バラモン教批判で受け身にたたされたバラモン教は、挽回をこころみ、ヒンドウー教を生みだします。バラモンたちは、教典『ヴェーダ』にない非アーリアの神をうけいれ、牛を神聖化し、仏教に学んで神像崇拝や聖地巡礼などをはじめます。一言でいえばバラモン教の大衆化です。そしてインド民衆の冠婚葬祭・通過儀礼とむすびついていきます。

 しかし仏教では、僧院の僧侶は、一般信者の日常には関係せず、仏教信者の日常は、バラモンにまかされていきます。第四の内的要因とはこのことをさします。仏教と一緒に生まれたジャイナ教が、僧と在家信者の緊密な相互扶助の関係を結び、今日まで存続しているのと対照的です。

 次にカースト社会の形成は理解しにくいのですが、基本的な四つのカーストだけでない現在あるような複雑なカースト制は、七~八世紀ころから成立してくるといわれます。生まれを意味する「ジャーティ」とは、先祖伝来の職業とむすびついた自治的機能をもつカースト集団です。「ジャーティ」 は、同一カースト内の結婚や、食事やタブーなどの掟が細かく決められた排他的な集団です。このカーストは生活の保障や相互扶助ともからみあい、人々の支持のもとにインド社会の基本となります。ヒンドウー教はこの流れとむすびつき、カースト制度を原理的に否定する仏教は、この流れのなかで排除されていくのです。

 インド中世は、都市が衰退し、バラモンを指導者とする農村社会が大勢をしめていきます。今でも残るカースト差別と平等原理の不徹底とは、仏教の衰退と関係があるのです。ガンディーやネルーとならぶ有名人で、インドの ″憲法の父″ といわれるアンベードカルの仏教改宗事件はこうしたなかでおこりました。

 他方で、仏教側での民衆化の努力もありました。ヒンドウー教の神々が仏教のなかにもとりいれられ、礼拝されたのはそのためです。柴又の帝釈天江ノ島の弁財天や毘沙門天竜神、明神などはヒンドウー起源の神様です。しかしこのような仏教のヒンドウー化は、やがてヒンドウー教に仏教が吸収されていく原因にもなります。こうしてヒンドウー側では、釈迦もビシュヌ神の化身としてとりこみ、仏教をヒンドウー教に吸収していきます。

引用・参照
http://www.jca.apc.org/rekkyo/newfile2001/tiri.htm