31-27 仏教興起の頃のインド

31-27 仏教興起の頃のインド

2006/10/4(水)


 西紀前五、六世紀はインドの歴史における重大な転換期を示している。アーリア人はこのころ、ガンジス川中流にまで進出していたが、その社会は従来の部族内寡頭政治から専制君主を持つ国家群へ、部族的支配の下の牧畜民の社会から自由な農民と商人の社会へと進化していた。工業は分化と専門化を通して一種のギルドを形成し、商業は貨幣経済の発達とともに多くの国々にまたがる広大な領域にわたって速やかに行われていた。マガダ、コーサラをはじめとする多くの国家において王権が拡張され、官僚主義的な機構も芽生えていた。この国王たちと富裕な長者・資産家たちに率いられた新しい社会は新しい倫理と宗教を要求していた。

 バラモン主義はヴィデーハ国などにおいてはなお強固に守られてはいたが、やや後のマガダ、コーサラを初めとする多くの国家ではバラモンの祭式主義はその権威を失墜させてきた。かつてバラモンたちは『ヴェーダ』の神々と自らとを並べて、二種の神がある、と宣言し、布施は人間たる神、すなわちバラモンに対する犠牲である、といい、人間たる神、すなわちバラモンを布施によって満足せしめることを部族民に要求していた。すでに『ウパニシャッド』の哲人たちは真実の探求を忘れて祭式にのみふけることの無意義さを批判していたが、新興の社会においては、『ヴェーダ』の知識の追求とバラモンの法をないがしろにして、黄金と財穀の蓄えに専心し、快楽と欲望の充足を求めてバラモンたちは、もはや人々の信頼を得ることができなかった。

 こうした社会においては、たとえ奴隷であろうとも、宝を蓄え、米穀・金・銀に富むならば、王族もバラモンも庶民も彼に対しては先に起き、後に寝、進んで彼に奉仕し、彼の気に入ることばを語り、従来、バラモン・クシャトリア(王族)・ヴァイシュヤ(庶民)・シュードラ(奴隷)の順に挙げられた四階級は、バラモンに代えてクシャトリアを先頭にして呼ばれるようになったことを仏典は記している。シュラーヴァスティーの給孤独長者が黄金を敷きつめてあがなって建てた祇園精舎の物語からも察せられるように、富裕な商人の実力はバラモンや王族をもしのぐに至っていた。

引用・参照
・梶山雄一 『インド思想史』 --その発展の必然性について
  岩波講座・東洋思想第八巻 インド仏教1 岩波書店


 前六-三世紀のインドは、旧来のアーリア文化の中心であるクル、パンチャーラ(バラモン教徒はこの地方を「中国」と呼ぶ)に対抗して、東方の辺境マガダを基盤とした新興勢力の台頭期にあった。その推進力となったのは、強力な権力を握った王族と、交易に従事した都市の資産者階層であって、この時期の反バラモン的なジャイナ教・アージーヴィカ教(邪命外道)・仏教の発展は彼らの支持に「よるものであった。

 仏教の開祖ゴータマ・ブッダと、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは同時代にマガダ(仏教徒はこの地方を「中国」と呼ぶを拠点として布教し、それぞれの教団を形成せしめた。)

引用・参照文献
・塚本敬祥 『教団論』
  岩波講座・東洋思想第10巻 インド仏教3 岩波書店