25-04 仏像が輝くとき

25-04 仏像が輝くとき

2006/2/3(金)

 
 古色蒼然たる仏像を私たちは見慣れている。奈良斑鳩(いかるが)の中宮寺と京都太秦(うずまさ)の広隆寺弥勒菩薩像がある。飛鳥時代に日本あるいは朝鮮で製作されたものである。現在では、いずれも表面の彩色はすっかり無くなり、中宮寺の像は線香の煙にいぶされて表面は漆黒、広隆寺の仏像は、赤松の木目がむき出しになっている。しかし、控えめな微笑と伏せ目がちな目線に、私たちは静寂と内省の姿を感ずる。

 仏教が伝わったのは、この飛鳥時代。朝鮮から渡来した仏像を見た当時の人たちの驚きは、『日本書紀』に「瑞厳(きらきら)」という言葉で残されている。仏像は本来「瑞厳(きらきら)」したものであった。

 今日のCG(コンピューターグラフィックス)の技術は、制作当時の仏像の姿をコンピュータの中に再現することを可能にした。また、現代の仏師や工芸家が仏像を復元したり、新たに製作している。さらには、古色を帯びた仏像や寺院も太陽やろうそくの光で当時の鮮やかさを蘇らせることがある。

 国宝の「普賢菩薩騎象像」が東京虎ノ門の大倉集古館にある。当時の色彩をわずかに残している。平安時代後期藤原時代の作で、優美な像である。この像の彩色をCGの技術で再現する試みがなされた。截金(きりがね)による文様にいたるまで精緻にしかも立体的に再現された。
 普賢菩薩信仰は高貴な貴族の女性の間で盛んであり、この像もそうした女性の寄進によるものと思われる。

 宇治の平等院鳳凰堂には、定朝の作になる阿弥陀仏像が安置されています。平等院平安時代後期、1052年に時の関白藤原頼通によって建立され、翌53年に鳳凰堂が建立され、阿弥陀仏像も造らた。鳳凰堂は1000年近い風雪とたびたびの戦乱に耐えてきた。
 この鳳凰堂をCGの技術で再現する試みがなされた。先ず、建物。朱色の柱と白壁が蘇ります。当時は堤防も無く宇治川の対岸から川面に生える鳳凰堂を望むことができた。内部の壁や柱、天井は極彩色の文様で覆われていた。また、扉の内側も一面に絵が描かれていた。

 このとき、鳳凰堂の阿弥陀仏像の背後の長押(なげし)に架けられている52体の雲中供養菩薩のうちの一体が実際に復元された。平等院の宝物館である鳳翔館の入り口付近に飾られている。

 現代の仏師が製作した仏像は鮮やかに彩色されている。如来像は菩薩像や明王像に比べて、姿も色もシンプルである。如来像の頭部は群青色、鮮やかな紺色である。頭部の中心に赤いルビー、額の中心に水晶、全身が金色で覆われている。

 もうひとつの「瑞厳(きらきら)」を見てみたい。鳳凰堂の夜景の写真である。池に写った鳳凰堂と阿弥陀仏像。池は極楽浄土の池すなわち宝池。軒下の柱には十分な赤みが残っている。浄瑠璃寺もみのがせない。宇治から更に南東のにいったところ、当尾(とうのお)の里といわれる、奈良県との県境の山の中のお寺である。
 やはり、池の向こうに阿弥陀堂がある。中には九体の阿弥陀仏像が安置されていて、九体阿弥陀といわれている。この阿弥陀堂は質素なつくりで、壁にも天井にもなんの模様もない。ところが、春分秋分の太陽が真西に沈む日は様相が一変する。日が沈み辺りが暗くなるとともに堂内が明るく照らされ、前面を覆っている戸がすべて取り払われる。対岸からは池に写った堂内の仏像を見ることができる。池の対岸からは、堂内の阿弥陀仏像の上半分は軒に隠れて見えないが、池には全身像が写っている。

 最後になります。兵庫県浄土寺阿弥陀三尊像がある。鎌倉時代の仏師快慶の作。平安末期から仏像制作の環境にも大きな変化が現れてきています。法然親鸞らは造仏、造寺という信仰のあり方を否定しました。「南無阿弥陀仏」を口に唱えよという口唱念仏を提唱した。阿弥陀堂の造りは簡素になった。

 この浄土寺阿弥陀堂も簡素なつくりであるがものすごい仕掛けが隠されていた。現代の仏師西村公朝さんの発見だと聞いている。阿弥陀堂の裏に池がある。夕陽が傾く頃背面の扉を開け放つと、池で反射した光が阿弥陀三尊像を背後から照らす。堂内は天井まで真っ赤になり、逆光の中に阿弥陀三尊像が浮かび上がる。

 CGによる復元は、テレビで放送されたものである。再放送を期待したいところです。