200-25-08

25-08 宇治川の戦い

2006/2/21(火) 午前 5:55 --25 仏教と日本文化 歴史

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 京都から奈良に向かう。東寺の五重塔を右手に見ながら国道1号線に入る。名神高速道路の京都南インターを抜ける頃になると辺りに畑や田が散在するようになる。道の右には桂川の堤防が見える。桂川は嵐山の奥から流れ出る川である。この少し南で宇治川と合流している。もうしばらく行くと西流する宇治川に出る。流れは広くないが、河川敷は広い。

 宇治川大橋を渡ると一帯は巨椋池おぐらいけ)干拓地である。宇治川と木津川に挟まれた、久御山(くみやま)町の一帯はかつて巨椋池という湖のような巨大な池であった。今は一面の水田である。巨椋池干拓地の真ん中で第二京阪道路京滋バイパスが交わっている。久御山JCTである。

 木津川と宇治川京都盆地の南部の低地に流れ込んで巨椋池ができた。巨椋池は秀吉が伏見城を築城するときの物資の輸送のため川筋が整備され、次第に姿を変えていった。池の規模は小さくなったがそれでも残っていた。池がなくなったのは戦後の干拓事業のためである。

 奈良盆地京都盆地平城山(ならやま)と巨椋池で隔てられていた。巨椋池のあった時代には、奈良と京都を結ぶ道は宇治を通る旧奈良街道と呼ばれる道のみであった。巨椋干拓地から東を見ると広大な水田の向こうに醍醐山(454m)などの峰々が見える。その下に宇治の平等院がある。瀬田川は琵琶湖から流れ出て県境の山地の南を迂回して宇治川となる。琵琶湖を水源とし、山地の水も集めて、宇治川の水量は豊かである。

 京都は北と東西の三方を山に囲まれ、南は巨椋池がある。そのため天然の要害であり、東は瀬田、西は山崎の狭い通路を守ればよい。南は、宇治川宇治橋辺りが防衛の拠点になった。このことが宇治川の合戦が繰り返された。
 
 桂川宇治川と並んで京都にはもうひとつ大きな川がある。木津川である。木津川は源流が深く三重県名張、室生付近まで達している大河である。奈良と京都の県境を縫うように西流して奈良市の北に出る。木津川はそこから北に向かって京都盆地に入る。この木津川に沿って北上し、宇治を通って山科に出るのが旧奈良街道である。

 最初の宇治川の合戦は、源平の戦いの端緒となったのは源頼政の挙兵に伴うものであった。以仁王(もちひとおう)を担いでの挙兵に失敗した源頼政が奈良へ逃れる途中平家の追討軍をここで迎えうつこととした。しかし、平家の軍勢は渡河に成功し、敗れることとなった。頼政切腹した場所が平等院の一角に残されている。扇の形の区画で芝生が植えられている。このとき、以仁王は必死に奈良へ向かって逃げたが、木津川の手前で平氏の追っ手に捕らえられた。木津川の向こうには奈良の僧兵たちが迎えに来ていた。

 その後、京都から追われた木曽義仲と追う義経の戦い、また、やはり京都から根拠地の河内へ逃げる楠木正成と追う足利尊氏との戦いがこの宇治川を挟んで行われている。京都の守りの要衝の地である宇治が追っ手を防ぐために三度も使われたのは歴史の皮肉であろうか。