21-09 古代の木材の供給地

21-09 古代の木材の供給地


 滋賀県大津市街の南東にたたずむ田上(たなかみ)山地は、標高600mまでの山々からなる。かつては緑に覆われていたが、飛鳥期から奈良期にかけて、平城京等の建立のため建築資材として多くの樹木が伐採されてしまった。この山地の主峰が太神山(たなかみやま)で、山頂には趣き深い不動寺が鎮座している。 

 以下は、『ウォーターステーション琵琶Web』(http://www.water-station.jp/)の「第2回歴史を語る会 大日山・太神山と大戸川の歴史を探る」会からの引用である。


□ 古代から乱伐され、禿山となった田上山

 田上山系は、飛鳥奈良時代以前は檜・杉・樫・椎などが鬱蒼と茂る美林であったといわれる。しかし古来より持統天皇の藤原宮(694)元明天皇による平城京(710)や聖武天皇による紫香楽宮(742)東大寺建立(743)といった都の建設、比叡山延暦寺三井寺等の巨大寺院の造営のための木材供給、さらに人々は、製鉄用薪炭材の伐採や農地の肥料として木を伐り落葉落枝や下草を奪う。石材の産出等が行われ、森林の伐採が絶えず、そこへ戦火で山火事も発生した。

 緑を失うと雨で土砂が流失する。花崗岩という再生力の弱い地質も手伝って、草の生える余裕もなくなって、田上山一帯は江戸時代の後期にはすでに禿山と化していた。そのため山肌からの多量の土砂が大戸川・信楽川・瀬田川といった周辺河川に流出し、近江の国ばかりか、瀬田川から淀川を下り、大阪湾を埋め大阪平野を広げたと言われています。

 一方、禿山になったために、この山の鉱物調査が容易にできた。多くの山肌が露出している。大きな穴ぐら、空洞が表面に出ている。空洞の中に結晶とか、黄玉トバーズ等々その調査が進み、そして、日本で最初の発見された水晶や、リチウムを含むチンワルドの雲母、希元素鉱物、他たくさんの多面体結晶鉱物を採取した。鉱物の山としても有名となる。金は出なかった。 
 
 仏教を進めた聖徳太子の時代には、大和を中心に大きな寺院だけで二十寺が建ち、以後も増え続けた。東大寺の大仏殿では直径1メートル、長さ30メートルクラスの檜の大木が84本も使われ、大仏殿全体だと同じ大きさの檜に換算して530余本に相当すると、木材工学の立場からの計算だそうである。奈良付近では、大木が得られなくなり、田上や伊賀地方にまで求めた。是だけの木を切って運び出すのは現代でも大変です。古代人は森と慎ましく付き合っていたという先入観は見事に覆される。

 藤原宮は、大規模で全く新しいタイプの都だから、建設には困難な問題が生じた。まず数万本にのぼる太い柱と大量の板材の調達である。「万葉集」などによると、木材は、田上山から筏に組んで瀬田川宇治川を下り、小椋池からは逆に木津川をさかのぼり、木津で陸あげし、奈良山を陸路で越えたらしい。陸路では、牛や馬が引く荷車が活躍したものとおもわれる。奈良盆地に入ってからは、佐保川や寺川など再び水系を利用し川のないところには人口の運河を掘って木材を運んだ。こうして、「太き宮柱」は大勢の使役の人々の努力で約100キロメートルの距離を運搬され、藤原宮に到着した。

 運び込まれた木材は、柱・梁・斗〈マス)・肘木(ヒジキ)等に加工され組み立てられていった。この時代の大工道具は、斧・ちょうな・のこぎり・やりがんな・のみ・錐などが揃っていたし、曲尺(ヵネジャク)や墨壺等も使われていた。また、水平の決定には水盛りの方法がとられるなど、当時の最先端の技術と道具が、宮の建設を支えている。

引用・参照URL
 ウォーターステーション琵琶Web(http://www.water-station.jp/)
 「第2回歴史を語る会 大日山・太神山と大戸川の歴史を探る」
  古代から乱伐され、禿山となった田上山
引用文献
 風よ語れ・森の思想史をたどる 音谷 健郎 
 近江の山・太神山 石丸 正