21-02 造営のスポンサー

21-02 造営のスポンサー

2006/4/5(水)


 斑鳩の宮の造営のスポンサーは誰であったのか。秦氏ではなかったのか。京都太秦広隆寺弥勒菩薩秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領したものである。太子と秦氏との間には相当深いつながりがあったことをうかがわせる。また、聖徳太子の息子の名前が山背大兄皇子である。当時奈良から見て京都が平城山の背後になることから京都を山背(やましろの)国といってた。山背国は秦氏の領域である。

 秦氏は、朝鮮渡来と言われている。京都の嵐山の一帯を開墾しその一帯を勢力圏にしていた。嵐山に「葛野(かどの)大堰」を築き、潅概を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っている。嵐山の渡月橋のところで川をせきとめ、水量を高めて、川の西岸へ流し、川水路を通して田畑に引き入れた。この堰によって嵯峨野一帯を耕地化することができた。

 秦氏は政治の権力争いに加わることなく、その高い技術力と財力の故に、有力な豪族たちからも一目おかれる存在になっていたのではないかと思われる。聖徳太子との深い関わりがあったのにもかかわらず、聖徳太子の一族が蘇我氏に滅ぼされた後も、また、大化の改新によって蘇我氏が滅びた後も存続し続けた。秦氏は平安遷都の造営でも大活躍をしている。