21-01 蘇我氏の戦略

21-01 蘇我氏の戦略


 毎年元日には、京都や奈良を訪れることにしている。その年(2003年)は、飛鳥まで行った。元日は高速道路も空いていて楽に走ることができる。石舞台、橘寺、亀石、飛鳥寺とまわった。

 飛鳥は、名阪の奈良・天理インターチェンジから南へ約15kmのところにある。奈良盆地の南の端である。605年に、聖徳太子はその飛鳥から斑鳩に宮を移し、一族とともに移転した。また、法隆寺の前身ともいえる寺(斑鳩寺)も建て、太子一族の根拠地とした。ところが気になるの飛鳥と斑鳩の距離の遠さである。斑鳩奈良盆地の中央をほぼ東西に流れる大和川の更に北で、松尾山の南の麓にあたる場所である。飛鳥から北西の方向に約15mの距離である。太子は「黒駒」といわれる愛馬を利用していたという伝説もあるが、この距離は、馬でも片道2時間はかかる。

 当時の政治の中心にいたのは蘇我馬子である。その影響力から逃れたいというの理由として挙げられることがある。しかし、斑鳩の宮の規模は大きく、斑鳩寺の規模、宮の数など飛鳥に匹敵する規模である。「逃避」という消極的な理由でこのような壮大な宮の建設はできない。移転には蘇我馬子の了解あるいは積極的な支持なしにはできなかったほどの大規模の事業であった。また、飛鳥と斑鳩の間は平地であり、飛鳥の甘樫の丘からは、斑鳩を展望することができるのである。「逃避」に適した場所ではない。

 蘇我氏にとって、斑鳩宮の建設はどのような意味があったのか。蘇我馬子物部守屋を討ったのが、587(崇峻元)年であるが、物部氏の所領であったところが、その後法隆寺の所領となっている。聖徳太子斑鳩へ移転は、物部氏が滅びた後に生じた空白を埋めるための蘇我一族の「進駐」であったともみることができる。