21-03 飛鳥の地

21-03 飛鳥の地

2006/10/26(木)


 明日香村を中心として、橿原市桜井市・高取町などの一部を含めて、広く飛鳥と呼ぶことがある。しかし、ここでは、香具山より南、橘寺付近より北で、飛鳥川より東の地域に限ることとする。

 飛鳥の北に、天香久山耳成山畝傍山大和三山がある。この三山に囲まれた平地には後に藤原宮が造営される。しかし、藤原宮のあった一帯は飛鳥には含めない。一方、推古朝の宮であった豊浦宮や小墾田宮(おわりだのみや)は飛鳥時代には小墾田 (小治田) と称される地域にあったとされているが、特に断らない限り、飛鳥に含めて考えることとする。

 現在の行政区でいうと飛鳥は奈良県高市郡明日香村の一部になる。明日香村は西半分が檜隈川(ひのくまがわ)の流域、東半分が飛鳥川の流域となっている。檜隈川、飛鳥川のいずれも南の高取山から流れ出る川である。ちなみに、終末期古墳として有名な、高松塚古墳キトラ古墳は檜隈川の上流付近にある。

 古い文献では、「あすか」に飛鳥・明日香・阿須迦などの文字を当てている。近年においても1956年の合併によって明日香村が生まれるまでは、この地域に飛鳥村があった。また、現在においても明日香村の字 (あざ) として飛鳥という地域名称は存在している。「あすか」の語源については外来語由来説、地形名称由来説などがあるがはっきりとしたことは判っていない。「あすか」という名称に「明日香」という漢字があてられている例は古くからあり、万葉集では「明日香」の用例の方が多い。

 ところで、「飛鳥」は漢字二文字である。地名を漢字二文字で表すようになったのは、『風土記』の編纂と関連がある。『風土記』は元明天皇和銅6年(713)5月2日の官命によって編纂された。この風土紀を作る際に、地名を全て漢字二文字にさせるべく、「地名を漢字二文字にせよ」との命(めい)を出したらしい。このときに「飛鳥」が二文字ということで選ばれた可能性もある。

 飛鳥の地は奈良盆地の南端の山に入り込んだところにある。その少し北東のところ、三輪山の南が桜井である。桜井の地は飛鳥に先立って大和政権の中心地となり、代々の天皇(大王)の宮が造営されてきた。馬子に暗殺されたという崇峻天皇の宮はこの桜井にあった。飛鳥時代はこの時から始まったともいうことができる。また、飛鳥から北北西の方向で、矢田丘陵の南端の松尾山の麓が斑鳩(いかるが)の地である。斑鳩の地は聖徳太子斑鳩宮を造営し、一族とともに移り住んだところである。

 飛鳥の北の耳成山の南を東西に走る道が幹線ルートであった。現在の国道165号線である。桜井を通って東に抜けると名張盆地に出る。さらに東に向かって青山高原を越えると、伊勢湾にでる。少し南に向かえば伊勢である。西へ向かうと、二上山(にじょうざん)の南の竹内峠、あるいは北の穴虫峠を越えて大阪に至る。

 飛鳥の南に広がる高取山の南に吉野川下流は紀ノ川)が西に向かって流れている。その南は、吉野、熊野の山岳地帯である。この山岳地帯を走る「紀伊山地の霊場と参詣道」が、平成16年7月、中国の蘇州で開催された第28回世界遺産委員会において世界遺産登録が決定された。

 飛鳥を一望するには、甘樫の丘(あまがしのおか)に登るのがよい。甘樫の丘は飛鳥川の西にある小高い山である。