21-10 法隆寺の広い空

21-10 法隆寺の広い空

2006/10/26(木)


 西名阪の法隆寺インターを出て北に向かうとすぐ大和川にさしかかる。その辺りから眺めると法隆寺は、松尾山の麓の松林に覆われ、五重の塔の上部だけが辛うじて見えるだけである。矢田丘陵は平群谷(へぐりだに)を挟んで生駒山地に平行して南北に走る丘陵である。松尾山は矢田丘陵の南端の山で、標高も二六六㍍と高い。法隆寺斑鳩の里はこの松尾山の麓にある。

 法隆寺の参道は長く、黒松が立ち並ぶ。ようやくにして南大門にたどり着く。南大門の階段を上り、境内に入る。そのさらに先に回廊と中門が見える。中門の左に五重塔、右に金堂の屋根が見える。南大門をくぐると法隆寺のイメージが一変する。旧盆の八月十五日に訪れたときは、境内は光に満ちていた。立秋を過ぎたせいか、少しばかり秋めいて、空の青さにも、陽の光にも透明感が感じられた。地面は花崗岩の風化した白い砂礫で覆われ、立ち並ぶ松の木が白い砂礫にくっきりと影を落としている。

 ここからは背後にあるはずの松尾山は見えない。奥の回廊の中に入ってもやはり松尾山は見えない。法隆寺は松尾山の南麓の緩やかなスロープのうえにあり、境内は奥に行くにしたがって高くなっていっている。したがって境内のどこからも松尾山をみることができない。境内の上に広がる空はさえぎるものはなく広く高い。

 大和川から見える法隆寺は高い松尾山の懐に抱かれるようにして静かに佇んでいる。その静かさとここの明るさのギャップに驚かずにはいられない。創建当時は、柱は朱に塗られ、金の装飾品がいたるところにつけらられていた。ここの明るさは西域にも通ずる明るさであったことだろう。

 法隆寺聖徳太子が創建した。六〇七年のことである。太子は斑鳩の宮の造営に着手したのが六〇一年、移転したのが六〇五である。法隆寺はその後落雷等に会い焼失している。現在の法隆寺は七世紀の後半に再建されたものである。

 焼失した法隆寺(以下「斑鳩寺」とする)は現在の法隆寺(以下単に「法隆寺」とする)の境内よりもわずかに東にずれていたのみである。伽藍配置は四天王寺様式といって、金堂、五重塔、講堂が一直線に並ぶ方式であった。聖徳太子もこの不思議に明るい境内を散策していたはずである。