21-11 斑鳩の選定

21-11 斑鳩の選定

2006/10/27(金)

 
 法隆寺の発掘で、さまざまなことがわかってきた。現在の法隆寺は再建されたものであること、再建前の法隆寺(以下、斑鳩寺という)は四天王寺様式で、金銅、講堂、五重塔が直列に配置されていたことなどである。五重の塔の心礎となった礎石は現在の若草伽藍の中にある大きな石である。斑鳩寺の伽藍は北にある松尾山を背にして南北に直線的に配列されていた。磁北からは西へ11度40分ずれていることもわかった。

 今日ではほとんどの寺社は南向きに造られている。従って、法隆寺が南向きであることを不思議に思う人は少ないだろう。しかし、飛鳥時代に建築された建物で南向きはむしろ珍しかったのである。例えば、橘寺がある。橘寺は聖徳太子が幼少のときにすごしたといわれる寺で、歴史は古い。この寺は山の北側で、西を背にしている。

 ところが、法隆寺とほぼ同時代に建立された、飛鳥寺法興寺)は南向きである。太子の死後建立されたという、斑鳩法起寺法輪寺も南向きである。推古朝になって、仏教が公認され、仏教文化がさまざまな技術や思想とともに導入された。この時期に、東西から南北への基軸の変化があったのではないか。

 太子はなぜ斑鳩の地を選んだのか。広さ、水利、水害の危険性を考えると、大きな宮に適する土地は、飛鳥周辺ではもう斑鳩しかなかった。また、引退後の半生を送る地であることを考えていたと思われるから、飛鳥からの適度の距離、飛鳥から見えるところ、といった点も考慮されただろう。さらに、斑鳩は松雄山の南麓に位置する。松尾山は矢田丘陵の最も南にある大きな山で、南麓は広くしかも八つ手のようになだらかに広がっている。

 風水からみてぴったりの土地柄なのである。風水は仏教とほぼ同時代に入ってきており、聖徳太子の時代には定着し始めた。終末期古墳の横穴式の構造、丘陵の南斜面を選んでいることなどからその定着の様子がうかがえる。しかし、馬子は、最後まで古墳全盛の時代の文化を捨て切れなかったようである。飛鳥寺の五重の塔の柱礎の埋設物の種類、馬子の墓といわれる石舞台の大きさや方角などに見られる。