22-16 飛鳥寺の柱礎

22-16 飛鳥寺の柱礎

2006/10/27(金)

 
■ 飛烏寺の塔の埋納物

 蘇我馬子の建てた飛烏寺は、七世紀前半の代表的寺院で、当時の仏教文化をよく示している。発掘調査の結果によると、ほぼ束西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の工人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。

 593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。古墳が造られる一方で、豪族たちの間に仏教が広まりだしたころのようすが、よく現われている。


■ 石舞台と風水

 石舞台古墳の石室の開口部分は、南を向いていない。これはかなり特殊な例である。一般に、六世紀末以後のほとんどの古墳は、真南に石室の入り口をもっているのだ。石舞台古墳はおそらく、墓造りにあたって風水思想が入り込まなかった結果、このようになったのだろう。

 冬野川を挟んだ南岸上に都塚古墳があるが、この古墳も石舞台古墳とまったく同じ開口方向を持つ。また、墳丘も一辺28mほどの方墳と見られる。いわば、この二つの古墳は、一対になっているように見えるのだ。一般に、終末古墳は風水思想による墓作りがなされている。だが、石舞台古墳と都塚古墳の二基だけは、この風水思想による造墓とは考えにくい。風水を拒んだ被葬者の性格が反映しているのかも知れない。

 近年の研究成果からは、築造年代は七世紀初め頃とされる。また、周辺の調査の結果から飛鳥時代の遣構の検出もあり、むしろ被葬者は馬子である可能性が増しつつある。しかし、古墳の編年研究上、石舞台古墳の年代がもう少し下降する可能性もある。そうなると墳丘の形と石室の開口方向が同じである都塚古墳と対になり、大・小ということから双墓で大陵・小陵という可能性が出てくる。つまり、『日本書紀』巻一面に記された、蘇我蝦夷と入鹿の墓ということになるのだ。この比定も可能性の一つとして考えておかねばならない。

引用・参照
河上邦彦 『飛鳥を掘る』講談社新書メチエ p58